本能寺の変 1582 光秀と信長 3 69 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 3 上洛
信長は、反対勢力の掃討戦へ向かった。
京を出て、勝竜寺へ。
寂照院に本陣を置いた(京都府長岡京市奥海印寺明神前31)。
城の北西、一里(4km)ほどの地。
廿九日(二十七日の誤り)、青龍寺表へ御馬を寄せられ、
寺戸寂照に御陣取。
程なく、落城(二十九日)。
これに依つて、岩成主税頭降参仕り、
(『信長公記』)
浅井長政の軍勢も、参陣していた。
「八千計り」、とある。
相当な数である。
当時は、高島郡も、長政の支配下にあった。
廿七日、癸酉(みずのととり)、天晴、酉の刻より小雨(18時頃)、
江州北郡衆・高島衆、八千計(ばか)り、神楽岡に陣取り、
又、南方へ越しおわんぬ、
義昭が出馬した。
信長の後につづく。
武家御所、清水寺より東寺え御座を移され、
又、西岡向へ御座を移さるゝと云々、
西岡方々所々・吉祥院・淀・鳥羽・河州・楠葉以下、放火なり、
今夜、武家、西岡寺土の寂勝院に御陣取りと云々、
諸勢、山崎天神馬場まで陣取りと云々、
勝隆寺の城、堅固と云々、
但し、和睦の調(ととの)ひこれ有りと云々、
(「言継卿記」)
⇒ 次回へつづく
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