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本能寺の変1582 その一因 一、武田効果 小45 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、武田効果 小45 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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その一因 一、武田効果 第45話

 【参照】その一因 一、武田効果
 【参照】信長の甲斐侵攻 2信忠、諏訪進出 
     ◎第45話  ◎小45   ◎P45  通し  第45話

 信忠の侵攻速度があまりにも速すぎた。    ◎第45話『信長公記
 武田氏は、瓦解した。            ◎第45話『信長公記
 勝頼は、孤軍となった。           ◎第45話『信長公記
 勝頼は、新府城に火を懸け退去した。     ◎第45話『信長公記
 勝頼は、躑躅ヶ崎から新府に移ったばかりであった。
                       ◎第45話『信長公記
 落ち行く者たちの姿である。         ◎第45話『信長公記

 この時、信長は、まだ、安土にいた。
 出陣の日は、三月五日。
 光秀は、これに同行する。

 ところが、武田氏は、内側から崩れた。
 信長の武威は、それ程までに、強大化していたのである。
 
そして、三月十一日。
 勝頼、自刃。
 同氏は、滅亡する。

 信長は、そのあまりの早さに、驚いた。
 「我ながら驚き入る計りに候」
 想定外だったのだろう。
 光秀も、これに同じ。

 そして、この大勝利により、
 信長の武威は、さらに、爆発的に、増大・強化される。
 これが、「武田効果」。

 信長は、これに、気づいた。
 光秀は、それを、察知した。

 四月二十一日。
 信長、帰陣。
 光秀、同。

 ここから、である。
 「人間五十年」
 「さらなる夢」
 時間の流れが、急激に加速し始めた。

 斯くして、事態急変。
 五月七日、四国出陣命令。
 同十七日、中国出陣命令。
 と、なる。

 すなわち、中国出陣の時期が、大幅に、早まった。

 石谷頼辰、未だ、帰らず。
 「万事休す」

 同二十九日。
 信長、上洛。
 信長の油断。

 光秀の決断。
 
六月一日、光秀は、軍勢の一部を西国へ向けて出発させた。

 同二日未明、「本能寺の変」。



 ⇒ 次へつづく

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 原因・動機の究明は、この一歩から!!

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 「本能寺の変」
 原因・動機は、この中にあり!!
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