本能寺の変1582 その一因 一、武田効果 小112 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、武田効果 小112
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その一因 一、武田効果 第112話
【参照】その一因 一、武田効果
【参照】信長の甲斐侵攻 4勝頼の首
◎第112話 ◎小112 ◎P112 通し 第112話
同、三月十一日。
勝頼は、田野に追い込まれた。 ◎第112話『信長公記』
滝川一益が勝頼を取り囲んだ。 ◎第112話『信長公記』
滅亡の時が来た。 ◎第112話『信長公記』
武田信勝は、十六歳。 ◎第112話『信長公記』
勝頼父子、生害。 ◎第112話『信長公記』
斯くして、甲斐の武田は消滅した。
勝頼父子の首。 ◎第112話『信長公記』
滝川一益の手柄である。 ◎第112話『信長公記』
同日。
信長は、岩村城にいる。
圧倒的な軍事力。
予想を超える大戦果。
信長は、満足していた。
信忠、一益、・・・等々。
使者・伝令、往来が頻繫だった。
吉報を待つ。
光秀、同。
「あの時とは、違う」
光秀は、そう、思った。
すなわち、天正四年1576の丹波攻め。
あれから六年後の今、天正十年1582。
信長の勢威は、確実に、成長していた。
その結果が、今の、この現実である。
「あの武田」が、滅ぶ。
あと、数日の内に、・・・・・。
光秀は、それを実感した。
信長の恐ろしさ。
「戦わずして、勝つ」
そのことを、改めて、再認識させられたのである。
信長は、信忠の通った道を辿って甲斐へ向かっていた。
光秀は、その信長に同行していた。
光秀は、己の両眼で、武田の滅び行く様を見ることになる。
この中で、
信長は、「武田効果」に気づいた。
光秀は、それを察知する。
結果として、このことが、「本能寺の変」の一因となった。
すなわち、信長をして、中国出陣を早めさせることになり、
そのことが、光秀を、最悪の状況へと追い込むことになるのである。
正に、「窮鼠猫を嚙む」の状態へと。
四月二十一日。
信長、帰陣。
光秀、同。
信長は、夢の中にいた。
安土。
大遠征の直後である。
まるで、雲の上を歩くが如し。
夢か、現実(うつつ)か、・・・・・。
おそらく、その様な感覚の中にあったのではないか。
一、「人間五十年」
一、「さらなる夢」
光秀は、焦燥していた。
坂本。
使者の出発が、正月十一日。
以来、すでに、四ヶ月が経過し、五ヶ月目に入っていた。
一、土佐の長宗我部は、・・・・・。
一、石谷頼辰の帰還は、・・・・・。
一、最悪の場合は、・・・・・。
事態急変。
①五月七日、四国出陣命令。
②〃十七日、中国出陣命令。
その発動日が六月一日だった。
ここに、「間に合わぬやもしれぬ」という問題が、急浮上する。
そして、その可能性が、次第に、色濃くなっていった。
足蹴事件。
①②に関連して、起きた事件と思う。
おそらく、①について。
光秀は、信長に、出陣の延期を懇請した。
しかし、信長は、これを容れず・・・・・。
五月十七日。
光秀、安土より坂本に帰城。
同二十六日。
光秀、坂本から亀山へ。
同二十七日。
光秀、愛宕山へ参詣。
同二十八日。
西坊にて、連歌興行。
石谷頼辰、未だ、帰らず。
「万事休す」
最早、打つ手はない。
同二十九日。
五月は小の月、この日が月末である。
信長、上洛。
信長の油断。
光秀は、四囲を見渡した。
柴田勝家、・・・・・。
滝川一益、・・・・・。
羽柴秀吉、・・・・・。
六月一日。
光秀は、軍勢の一部を、中国へ向けて出発させた。
光秀の決断。
同二日未明、「本能寺の変」。
⇒ 次へつづく
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「本能寺の変」
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