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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 48 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

信長は、上洛を断念した。

 同二十二日。
 約束の日である。
 しかし、信長は、動かず。
 「織上違変せしめ候」
 変心した。 
 
  一、織田、江州を罷り透(通)るべく、路次番等も相調ふの間、
    参陣差し急ぎ候様にと、
    細兵(細川藤孝)、重ねて尾(尾張)へ下向候て催促のところ、

    この期に至り、織上(織田上総介)違変せしめ候、
                          (「中島文書」)         

信長は、斎藤竜興を信用していない。

 極めて、不安定な時代だった。
 先のことなど、誰にもわからない。
 生きること。
 すなわち、「罠」に嵌まらぬこと。

信長は、注意深く、用心深く、疑い深く、思慮深い。

 斯くなることは、想定の内。
 「美濃」、すなわち、斎藤龍興。
 原因の全ては、そこにあった。
 油断できぬ、人物なのである。

義昭は、甘かった。

 現実を、直視できず。
 期待だけが、先走った。
 結局は、時期尚早。
 「無理」を、夢見ただけのこと。
 これまでの苦労は、元の木阿弥。

幕府の権威は、疾(と)うの昔に失せていた。

 これが、戦国時代後半の真の姿。
 戦国大名にとっては、
 「利用すれども、頼るべからず」、なのである。

 信長は、見事に、これを実践した。
 そして、本能寺に死す(49歳)。 
 義昭は、終生、それに固執した。
 そして、秀吉の御伽衆となり、鞆(とも)にて病没(61歳)。

 これが、二人の生き方だった。

          ⇒ 次回へつづく 


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