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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 5 32~36 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 5 分かれ道 

*32~36は、バックナンバーです。

32 信長は、苛烈だった。

 竹生島、参詣事件。
 信長は、女房衆らを誅殺した。

33 その時、光秀は丹後にいた。

 光秀は、福知山城に明智秀満を置いた。
 束の間の平穏。
 世俗を離れて。 

34 細川藤孝が光秀一行を出迎えた。

 「惟任日向守殿父子三人」
 「長岡兵部太夫殿父子三人」
 細川忠興は、光秀の娘婿である。
 光秀は、風流の人だった。
 光秀、天橋立に遊ぶ。

35 実に、好対照な出来事であった。

 信長は、竹生島参詣後、女房衆を誅殺。
 光秀は、天橋立に遊び、連歌を楽しむ。
 光秀は、節度の人。
 光秀は、文武両道の人。 

36 ここが、二人の分かれ道であった。

 信長は、天下統一、さらなる夢へ。
 光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。
 明智は、絶頂期にあった。
 二人の距離は、少しづつ、離れていく。 
 

          ⇒ 次回へつづく 


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