本能寺の変 1582 光秀と信長 3 68 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 3 上洛
信長、上洛。
信長は、入京した。
東寺に、本陣を構えた。
廿八(二十六の誤り)日、信長東福寺(東寺の誤り)へ御陣を移され、
信長は、三好三人衆を攻撃した。
三人衆の一人、石成友通が勝竜寺城に立て籠もっていた。
柴田勝家ら四将が、これを攻めた。
柴田日向守・蜂屋兵庫頭(頼隆)・森三左衛門(可成)・坂井右近(政尚)、
此の四人に先陣を仰せ付けられ、
則ち、かつら川打ち越し、御敵城、岩成主税頭楯籠る正立寺表に
手遣ひ、
御敵も、足軽を出だし侯。
右四人の衆、見合せ、馬を乗り込み、頸五十余討捕り、
東福寺にて、信長へ御目に懸けられ、
義昭、上洛。
義昭は、清水寺に御座を移した。
公方様、同日に清水へ御動座。
(『信長公記』)
山科言継がこの歴史的瞬間を見ていた。
織田の軍勢は、二方向から京に入った。
廿六日、壬申、天晴、
早日より、尾州衆出張り、山科郷より南方へ通り了(おわ)んぬ、
北白川より、同じく出づる人数これあり、
細川藤孝も、京に入った。
細川兵部大輔(藤孝)・明印(明院良政)ら、北門まで参る、
光秀も、これに同じ。
当然、そうなる。
しかし、その名は、未だ世に出ず。
今日、武家(義昭)、清水寺まで御座を移さると云々、
織田弾正忠信長、東寺まで進発と云々、
京の近郊で、戦いが始まった。
山科郷・粟田口・西院方々に放火、
久我に於いて軍(いくさ)これありと云々、
左右方(そうかた)、多(さは)に討死と云々。
石成主税助友通の城、勝龍寺に於いて、同じく合戦これありと云々。
(「言継卿記」)
⇒ 次回へつづく
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