本能寺の変1582 第59話 9光秀という男 4教訓 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第59話 9光秀という男 4教訓
光秀は、土岐の歴史から教訓を得た。
光秀は、土岐の一族。
我が家、我が先祖を誇りに思っていた。
知れば、知るほどに。
そして、「土岐康行の乱」。
光秀は、教訓を得た。
一、主君ならばこそ、油断すべからず。
先祖たちの、血と汗の結晶。
土岐氏は、頼康の代に、最盛期を築き上げた。
それを潰したのが、将軍足利義満であった。
土岐の栄華は、無惨にも、主君の手によって打ち砕かれた。
一、頼むべきは、己の力ただ一つ。
土岐の一族は、盟主を失った。
結果、桔梗一揆は崩壊した。
諸家、それぞれ、生き残る道を模索する。
一、判断を違えれば、消滅する。
以後、土岐氏は衰退への道を歩む。
光秀の脳裏には、常に義満と信長があった。
第三代将軍足利義満と主君織田信長が、・・・・・。
光秀は、土岐康行を、自身と重ね合わせた。
油断すれば、全てを失う。
光秀は、粛清を怖れていた。
光秀は、激動する戦国の世を生き抜いてきた男。
用心深く、洞察力に優れていた。
信長の性格・性分を知り尽くしている。
今では、ない。
だが、いずれ・・・・・。
ならば、いつ・・・・・。
⇒ 次へつづく 第60話 9光秀という男 5斎藤氏の盛衰
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