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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 1 41 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 1 永禄の変 

義昭は、近隣諸国の大小名へ御内書を送った。

 謙信へ、ばかりではなかった。
 当然、信長へも、家康へも。
 義昭は、支援を要請した。 

信長との交渉は、すでに始まっていた。

 同年(永禄八年1565)、十二月。
 以下は、御内書に対する信長の返書である。

 「重ねて」、とある。
 義昭の御内書は、これ以前にも、送られていた。

  御入洛の儀に就いて、重ねて御内書を成し下され候、
  謹みて、拝閲致し候、

信長は、義昭への協力を約束した。

 「度々」、とある。
 信長は、複数回、応諾の返事を伝えてあった。

  度々、御請け申し上げ候如く、
  上意次第、不日なりとも御供奉の儀、無二その覚悟に候、

 義昭は、越前の朝倉義景・若狭の武田義統へも協力を要請していた。

  然らば、越前・若州、早速、仰せ出だされ、
  尤もに存じ奉り候、

細川藤孝が、信長の窓口だった。

 信長と藤孝の交流は、この年から始まった。
 
  猶、大草大和守(公広)・和田伊賀守(惟政)、申し上げらるべきの旨、
  御取り成し仰ぐ所に候、
  恐々敬白、

 
   十二月五日           信長(花押)
    細川兵部太輔殿

                     (「東京大学史料編纂所蔵」)

 
          ⇒ 次回へつづく 

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