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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 298 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 8 三好の衰退 

長慶は、松永久秀を重用した。

 久秀は、大和の支配者。
 信貴山城主。

  長慶、少しも、騒がず、
  色紙・短冊、取り出し、
  和歌を吟詠しながら、

  万事は、和主(わぬし=お前)にまか(任)するなり、
  よきにはからへ、と宣(のたま)ひける、

長慶は、飯盛山に立て籠もっていた。

 守りに徹するのみ。

松永久秀が動いた。

 急ぎ、諸勢を掻き集めた。
 後詰の軍勢である。

  松永弾正、方々え催促して、

三好義興が後詰の軍勢を率いた。

 反撃開始。
 大将義興、この時、二十一歳。
   【参照】三好義興は、長慶の後継者。246

  三好筑前守義興を大将とし、
  同(三好)日向守政康(長逸)・三好久助(弓介)・
  同下野守(政生まさなり)・同備中守、

義興は、四国勢と合流した。

 彼らは、尼崎に上陸していた。

  四国衆は、三好山城守康長・安宅摂津守冬康、

三好方は、畠山勢を挟撃しようとした。

 飯盛山に、長慶の軍勢。
 これを攻める、畠山。
 後詰、義興率いる合流軍。

  松永弾正は、申すに及ばず、八千余騎、馳せ集まり、
  渡辺川(淀川)を渡り、
                         (「足利季世記」)

          ⇒ 次回へつづく

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