本能寺の変1582 その一因 一、武田効果 小66 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、武田効果 小66
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その一因 一、武田効果 第66話
【参照】その一因 一、武田効果
【参照】信長の甲斐侵攻 3信長、出陣
◎第66話 ◎小66 ◎P66 通し 第66話
同、三月七日。
信忠は、諏訪から甲府に入った。 ◎第66話『信長公記』
信忠は、軍勢の一部を上野へ派した。 ◎第66話『信長公記』
信忠は、戦わずして、上野を制圧した。 ◎第66話『信長公記』
信長は、わずか一月で、四ヶ国を手に入れた。 ◎第66話『信長公記』
すなわち、駿河、甲斐、信濃、上野。
信長の勢威、恐るべし。
最早、逆らう者など、誰もいない。
光秀は、信長の勢威が、これ程までだとは思っていなかった。
信長の勢威は、丹波では通用しなかった。
天正四年1576。
一月、波多野秀治が裏切った。
光秀は、大敗を喫し、九死に一生を得た。
この時期、信長の勢威は、まだ、未成熟だった。
光秀には、そのような経験があった。
光秀の戦いは、天正八年1580で終わる。
光秀には、長いブランクがあった。
光秀は、甲斐攻めが長引くものと思っていた。
信長の勢威は、確実に成長していた (①~③) 。
①「長篠効果」
②「本願寺効果」
そして、今。
甲斐侵攻。
武田崩壊。
信長の勢威は、さらに、大きなものになっていた。
しかし、信長は、まだ、自分の実力に気づいていない。
③「武田効果」
この四日後、三月十一日。
勝頼、死す。
武田、滅亡。
この大勝利により、
信長の勢威は、爆発的に、増大・強化される。
これすなわち、「武田効果」。
信長は、最強・最大の武器を手に入れた。
「戦わずして、勝つ」
最早、この国に、信長に、刃向かう者はいない。
信長は、これに気づいた。
光秀は、それを察知した。
信長は、大きな自信を得た。
「次は、毛利」
信長は、確信した。
「天下統一は、成る」
光秀には、先が見えた。
「国替え」
そして、「さらなる夢」へ。
これすなわち、明智存続の危機。
これを阻止するためには、中国攻めを取り止めにする他ない。
ここで、事態急変。
中国出陣の時期が、大幅に、早まった。
石谷頼辰、未だ、帰らず。
「万事休す」
信長、上洛。
信長の油断。
光秀の決断。
「時は今」
六月二日未明、「本能寺の変」。
⇒ 次へつづく
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