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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 44 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

細川藤孝は、信長から言質を得た。

 同年、七月。
 急ぎ、義昭へ。

義昭の家中は、沸き立った。

 上洛の日が決まった。
 「来月二十二日」 
 信長、これに供奉。
 「織田尾張守参陣致し、御動座御供申すべき由に候」

義昭は、これを各所へ知らせようとした。

 「則ち、御内書成さるゝの通り」
 義昭の心は、すでに京へ。
 「幕府再興」
 今、一歩。
 「成る」
 そう、思っただろう。 


          ⇒ 次回へつづく 

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