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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 42 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

永禄九年(1566)、春。

細川藤孝は、尾張にいた。

 同年、四月。
 この時は、和田惟政と一緒だった。
 「参洛の事」
 上洛について、信長と交渉を進めていた。
 「誓紙」、とある。
 最終段階に入っていた様である。

義昭の期待は、大きかった。

 この頃、義昭は矢島にいた(滋賀県守山市矢島町)。
 
 以下は、義昭が藤孝・惟政へ送った書状である。
 「何時(いつ)比(ころ)参洛候哉」
 
「帰参、待ち入り候」
 期待は、膨らむばかり。
 吉報を待っていた。
 
  長々在国、辛労に候、
  信長参洛の事、別儀なきの由、喜び入り候、

  然れば、治定(決定)、何時(いつ)比(ころ)参洛候哉、
  能々(よくよく)、相究め、信長誓紙申し調(ととの)へ、
  帰参、待ち入り候、

 長引くようであれば、一人でもいいから、先ず、帰って様子を報告
 するように。

  由断ある間敷く候へども、若し相延ぶ候はゞ、
  一人なりとも、先ず其方の様躰、
  上国せしめ、言上肝要に候なり、
                      (義秋)
     卯月十八日、           (花押)
 
  (宛名ウハ書)
  「(墨引)
           細川兵部大輔とのへ 
           和田伊賀守とのへ  」
                         (「和田家文書」)
 


          ⇒ 次回へつづく 

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