本能寺の変1582 重要 ◎第15話 240117 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第15話 240117
4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 7/7
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*加筆修正 240117
◎信長は、執念深い。
◎最後まで、信盛を赦さなかった。
太田牛一は、二度繰り返している。
「御折檻の条、御自筆にて」
「此の如く、御自筆を以て遊ばし」
信長は、激昂した。
これまで、腹中に堪め込んでいたものが一気に噴き出した。
此の如く、御自筆を以て遊ばし、
佐久間右衛門父子かたへ、楠木長安・宮内卿法印・中野又兵衛、
三人を以て、遠国へ退出すべき趣、仰せ出ださる。
取る物も取り敢へず、高野山へ上(のぼ)られ侯。
◎信長は、苛烈だった。
厳しく、激しいのである。
しかも、徹底していた。
爰(ここ)にも叶ふべからざる旨(むね)、御諚に付いて、
高野を立ち出で、
◎信盛は、逐電した。
最早、見る影もなし。
「嬲り殺し」
落ちぶれ果てた哀れな姿であった。
紀伊州熊野の奥、足に任せて逐電なり。
然る間、譜代の下人に見捨てられ、
かちはだし(徒歩裸足)にて、己と草履(ぞうり)を取るばかりにて、
見る目も哀れなる有様なり。
(『信長公記』)
◎信盛は、失意のうちに亡くなった。
それから、ちょうど一年後。
天正九年1581、八月。
大和十津川にて、没す(奈良県吉野郡十津川村)。
享年、五十五という。
◎これが、織田家重臣筆頭者の末路である。
山中の温泉場にて。
人知れず。
息を引きとった。
その心中や、如何に。
十九日、
一、佐久間、十津川の湯にて死ぬにつき、
高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
信長より仰せつけられ、
上使、指し上らるゝのところ、
悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、
これにより、諸国の高野聖(ひじり)とらえらる、
近日、手遣(てづか)ひのあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)これ在ると云々、
高野滅亡、時刻到来か、
(「多聞院日記」八月十九日条)
◎多聞院英俊もまた、歴史の証人であった。
奈良、興福寺多聞院の院主。
「多聞院日記」の著者。
当日記は、先々代・先代から、引き継がれたものという。
大和に関する記述が多い。
特に、英俊の代は、三好・松永・筒井・信長・光秀の時代と合致する。
それらを知る上で、貴重、かつ、重要な史料である。
◎その時、光秀は、奈良にいた。
同じ日。
偶然にも、光秀は、郡山城を検分するため当地を訪れていた。
◎そこで、信盛の死を知った。
誰もの、関心事。
当然、その話となる。
光秀の耳にも、入ったであろう。
一、惟任日向守、郡山城普請見舞いとして、
今朝、朝早く成身院まで越しおわんぬ、
十新(十市氏=筒井氏の親族衆)、是れに来おわんぬ、
成(成身院)にて、一献これ在り、
頓(やが)て、郡山へ同道しおわんぬ、
人数、百計(ばか)り歟(か)と云々、
(「多聞院日記」八月十九日条)
◎光秀は、佐久間信盛の死に様を知っている。
◎これが、信長の仕打ち。
◎確と、「肝に銘ずべし」。
◎光秀の心中、穏やかならず。
◎光秀の苦悩は、次第に大きくなっていく。
「油断」、すなわち、「死」。
「幸」と「不幸」は、紙一重。
一瞬にして、人生が変わってしまう。
「陥穽」は、至るところに隠れていた。
「災い」は、音を立てずにやって来る。
◎光秀は、歴とした戦国武将。
気の抜けぬ時代だった。
光秀は、このような時代を生きていたのである。
◎光秀は、不撓不屈の男。
強靭な精神力、強固な意志、そして、実行力を合わせ持つ男。
幾度も、艱難辛苦を乗り越えて来た。
◎光秀の心の内には、秘する思いがあった。
・・・・・・・・・・。
それが、己の生きる道。
◎信長は、命に逆らう者を容赦しない。
繰り返す。
信長は、絶対専制君主。
誰よりも、誇り高い男なのである。
本願寺を、屈服させた男。
恐ろしい男なのである。
◎高野滅亡、時刻到来か。
そのことが、また、証明された。
高野聖を成敗。
その数、何と、数百人。
八月十七日、高野聖(ひじり=僧)尋ね捜し、搦(から)め捕へて、
数百人、万(よろず)方より召し寄せられ、悉く誅せられ侯。
◎「摂津伊丹の牢人ども」
荒木村重、謀叛。
その残党たちが高野山に逃げ込んだ。
信長は、彼らを差し出すよう命じた。
子細は、摂津伊丹の牢人ども、高野に拘(かか)へおき侯。
其の内にて、一両人召し出ださるべき者侯て、
御朱印を以て、仰せ遣はされ侯ところ、
◎高野山は、抗戦の姿勢を見せた。
これを拒否したのである。
其の儀、御返事をば申し上げず、
剰(あまつさ)へ、御使に遣はせられ侯者十人ばかり、討ち殺し侯。
その結果、斯くの如し。
毎度、御勘気を蒙る者抱へ置き、緩怠につきて、
かくの如く侯なり。
(『信長公記』)
これについては、後述する。
⇒ 次へつづく
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