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本能寺の変 1582 光秀と信長 2 60 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 2 美濃立政寺 

信長は、義昭を美濃立政寺に迎えた。

 同寺は、岐阜市西荘3丁目に現存する。
 岐阜城より西南方向へ6kmほどの地点。 
 
  永禄十一年七月廿五日、
  越前(一乗谷)へ御迎へのため、
  和田伊賀守・不破河内守・村井民部・島田所之助を進上なされ、

  濃州西庄立正寺に至りて、公方様御成り。

盛大な祝宴が催された。

 これまでの苦労が報われた瞬間である。
 「長かった」
 そう、思っただろう。
 永禄八年のあの時(1565)。
 以来、四年の歳月が流れていた。
 
  末席に鳥日(ちょうもく=銭)千貫積ませられ、
  御太刀・御鎧(よろい)・武具・御馬色々進上申され、
  其の外、諸侯の御衆、是れ又、御馳走斜ならず。

義昭は、満足した。

 となれば、次は上洛。
 手の届くところに、それは、ある。

  此の上は、片時も(一刻も早く)御入洛御急ぎあるべしと、思し食し、
                          (『信長公記』)

 藤孝は、復活した。

 上杉→織田→上杉→織田。
 逆転、また逆転。
 ここに、ようやく、決着がついた。
 これ以後、親信長派が主流となる。
 当分の間は、・・・・・。
 義昭の家中には、この様な対立があった。

藤孝は、大きな手柄を上げた。

 後の行われる論功行賞を見れば、そのことがよくわかる。
 これについては、後述する。

和田惟政も、これに同じ。

 同上。


          ⇒ 次回へつづく 

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