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本能寺の変 1582 信長、死す 1~7 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長、死す 

*1~7は、バックナンバーです。

1 今から441年前のこと。

  天正十年六月二日、未明。             『信長公記』
  光秀は、己の心底を打ち明けた。          『信長公記』
  「信長を討つ」                  『信長公記』

2 光秀は、中国攻めを取り止めた。      『信長公記』

  老ノ坂を経て、山崎へ。              『信長公記』
  光秀は、亀山を発った。              『信長公記』

3 光秀は、沓掛に到着した。         『信長公記』

  そして、桂川へ。                 『信長公記』
  漸く、夜も明け方に罷りなり侯。          『信長公記』

4 明智の軍勢が本能寺を取り囲んだ。     『信長公記』

  大喊声が沸き起こった。              『信長公記』
  信長は、これに気づいた。             『信長公記』
  「謀叛」                     『信長公記』
  是非に及ばず。                  『信長公記』

5 明智勢が御殿へ殺到した。         『信長公記』

  本能寺は、修羅場と化した。
  御厩、無惨。                   『信長公記』
  御殿では、死闘が繰り広げられた。         『信長公記』

6 信長は、弓を取った。           『信長公記』

  次、槍。                     『信長公記』
  女は、くるしからず。               『信長公記』

7 本能寺、炎上。              『信長公記』

  信長は、納戸に入った。              『信長公記』
  夢幻の如く也。                  『信長公記』
  享年、49。


          ⇒ 次回へつづく

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