本能寺の変1582 重要 ◎第4話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第4話
2信長と「敦盛」 人間五十年
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*加筆修正 240124
◎これが信長の生き様であった。
信長は、幸若舞を好んだ。
特に、「敦盛」の、この一節。
敦盛を一番より外は、御舞ひ候はず候。
心の奥底に、深く刻み込まれていた。
人間五十年、
下天の内をく(比)らぶれば、
夢幻の如く也、
一度生を得て、
滅せぬ者の有るべきか、
(『信長公記』「天沢長老物かたりの事」)
◎信長は、己の人生と重ね合わせた。
そして、激動の時代へ立ち向かった。
織田家の存亡を賭けて。
孤独だった。
この様にして、自らを鼓舞したのだろう。
その姿が目に浮かぶ。
◎信長は、「五十年」を強く意識していた。
余程、気に入ったものと思う。
『信長公記』には、二度出てくる。
ともに首巻。
一、「天沢長老物かたりの事」
一、「今川義元討死の事」
「五十」、「五十」と、つづく。
強く意識していた証である。
◎「人間五十年」の意味。
そもそも、「敦盛」の主人公は熊谷次郎直実である。
直実は、一ノ谷の合戦(1184)で平敦盛を討ち取った。
我が子と同じ年頃の若武者だったという。
後に、その菩提心から、出家して高野山へ上った。
この一節の前後は、この世の無常と直実の心情を表現する場面である。
したがって、本来の意味は次のようになる。
「人の世」の五十年は、
下天(天上界の最下位)のわずか一日にすぎない、
夢・まぼろしの如く、短く、儚いものである、
この世に生を享け、死なぬ者など一人もいない。
◎信長は、戦国時代の後半を生きた。
ところが、やがて、この部分だけが、前後の流れから切り離されて、
独り歩きするようになった。
昔の人は、短命だった。
早死する人が多かった。
人々の大半が、直感的に、「人の一生は五十年」をイメージした。
その方が、現実にマッチしたからである。
そして、年を経るごとに、その傾向が色濃くなった
信長の生きた時代。
すなわち、天文三年1534から、弘治・永禄・元亀を経て、天正十年
1582までの間は、戦国時代の後半に当たる。
直実の時代から、350~400年ぐらい後の世である。
とすれば、なおさらである。
当時の人々は、次のように解釈した。
自分たちの人生をダブらせた。
「人の一生」は五十年、
下天のわずか一日にすぎない、
夢・まぼろしの如く、短く、儚いものである、
この世に生を享け、死なぬ者など一人もいない。
戦国乱世。
油断すれば、命を失う。
過酷な時代だった。
◎そして、桶狭間へ。
遡ること、22年前。
永禄三年1560、五月十九日。
正に、手に汗握る名場面*。
信長、この時27歳。
「出家の心情」が「出陣の決意」に転じている。
案の如く、夜明(十九日)がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたより、
早(はや)、鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。
此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし侯。
人間五十年、
下天の内をくらぶれば、
夢幻の如くなり、
一度生を得て、
滅せぬ者のあるべきか、
とて、
螺(かい)ふけ、具足よこせと、仰せられ、
御物具(もののぐ)めされ、
立ちながら、御食を参り、
御甲(かぶと)をめし候て、
御出陣成さる。
(『信長公記』「今川義元討死の事」)
*名場面は、複数ヶ所あり!!
ご注目下さい!!
◎太田牛一と『信長公記』について。
太田牛一は、信長の家臣。
元々は、柴田勝家に仕えていた。
その後、信長の直臣となった。
永禄十一年1568の頃という。
以来、天正十年1582までの十五年間。
信長をよく観察した。
それらを克明に記録して、書き溜めておいたらしい。
それを元に書き上げたのが当記である。
慶長三年1598のことであった。
信長が没してから、16年が経過していた。
永禄十一年から天正十年まで、年ごとに順に全十五巻。
当時を知る上で、極めて重要性の高い貴重な史料である。
首巻は、その少し後に書かれたようだ。
こちらは、牛一が信長の家臣になる前の記録である。
その多くは、口承等に拠ったものであろう。
この頃は、まだ、牛一と同様、存命の旧臣たちが数多く存在していた。
若き日の信長について、彼らから聞き取ることが比較的容易にできた
ものと思う。
複数の人たちから、裏付けをとることも可能だっただろう。
だが反面、記憶違い等のため、年月日・場所等について、確実性に
問題のある箇所も有る。
牛一にとって、信長は自慢の主君。
印象深い場面だったのだろう。
鮮烈な記憶として、後々まで残った。
◎信長は、信念の人・実行の人である。
心に決めたことは、必ず、成し遂げた。
◎きわめて、目的意識の強い男であった。
粘り強く、執念深く、忍耐強い。
目的のためには、手段を選ばぬ恐ろしい男だった。
◎結果、この「五十年」が信長に先を「急」がせた。
天正十年1582。
三月、武田氏、滅亡*1。
圧倒的な武力を背景にした、衝撃的な大勝利であった。
信長は、ここで、己の武威の強大さを確信した。
これすなわち、武田効果*2。
そして、五月。
いよいよ、中国出陣である*3。
信長は、「天下布武」を成し遂げるつもりだった*4。
信長は、燃えていた*5。
心身ともに、きわめて壮健*6。
「十年」、「いや、二十年」、・・・・・。
まだまだ、これからよ。
そう、思っていたことだろう。
信長には、夢があった。
「さらなる夢」*7が。
信長、四十九歳。
脳裏にあるのは、「人間五十年」。
信長は、この「五十年」を人生における大きな節目と考えた*8。
すなわち、それ以前とそれ以後、との。
すなわち、「天下布武」と「さらなる夢」、との。
そして、来年は、信長、五十歳の年。
「武田を見よ」
信長は、出来ると思っていた*9。
となれば、・・・・・。
残すところは、一年余り。
「急がねばならぬ」
と、なる。
なれど、一歩及ばず。
立ち上る煙とともに、天空の彼方へ。
戦国の世は、無情なり。
*1~*9については、後述する。
◎そして、それが「焦り」になった。
◎そこに、「隙」が生じた。
◎これすなわち、「油断」。
◎「五十年」→「急」→「焦り」→「隙」=「油断」
◎光秀には、行動力と実行力があった。
◎光秀は、チャンスに強い。
◎光秀は、信長の「隙」を衝いた。
◎これが本能寺の変である。
これらについては、後述する。
⇒ 次へつづく
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原因・動機の究明は、この一歩から!!
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