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本能寺の変 1582 光秀の年齢 2 140 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 2 柴田勝家と滝川一益 

老人とは。

 やはり、「六十代」からであろう。
 そして、かつ。
 知力・気力・体力・行動力のバランスに変調を覚えた時。
 自身が、それを自覚した時からである。

 「代」としたのは、幅があるから。
 結局は、人、それぞれ。
 十人十色。
 百人百様。
 個人差がある。
 一概に、決めつけることなど出来ない。 
 
 当時の人々は、短命だった。
 それ故、現代の我々よりも早かった。 

 以上、縷々述べてきた。
 勝手ながら、ここでは、そうさせて頂く。

光秀は、老人の一歩手前だった。

 その時は、確実に迫っていた。
 「是非もなし」、である。
 光秀は、そのような時期に差し掛かっていた。

光秀の長女は、永禄元年頃に生まれた。

 三女が永禄六年(1563)の生れとすれば、そうなる。

光秀は、弘治年間に妻木氏を妻に迎えた。

 弘治は、元年(1555)~三年(1557)の短期間。
 長女の誕生が永禄元年頃だとすれば、そうなる。


          ⇒ 次回へつづく



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