本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 1 37~41 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と細川藤孝 1 永禄の変
*37~41は、バックナンバーです。
37 藤孝は、信長と同年齢である。
藤孝は、元々、第十三代将軍足利義輝の家臣だった。
「永禄六年諸役人附」
この時、光秀は、まだ幕臣になっていない。
38 世を震撼させる大事件が勃発した。 『信長公記』
三好氏の下剋上である。 『信長公記』
将軍義輝が殺害された。 『信長公記』
この時、義輝の三弟鹿苑院周嵩も殺された。 『信長公記』
大衆は、世の乱れを憂えた。 『信長公記』
39 義輝の次弟覚慶は、捕らわれの身となった。『信長公記』
この覚慶こそ、後の足利義昭である。
義昭は、奈良を脱出した。 『信長公記』「多聞院日記」
40 義昭が幕府再興に動き出した。
義昭は、上杉謙信を頼った。 「上杉家文書」
謙信は、これまで二度上洛している。
大覚寺義俊が上杉の窓口だった。 「上杉家文書」
41 義昭は、近隣諸国の大小名へ御内書を送った。
信長との交渉は、すでに始まっていた。 「東京大学史料編纂所蔵」
信長は、義昭への協力を約束した。 「東京大学史料編纂所蔵」
細川藤孝が、信長の窓口だった。 「東京大学史料編纂所蔵」
⇒ 次回へつづく
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