本能寺の変1582 第184話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第184話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
信長は、浜手の街道を重要視した。
この街道を北上。
大良越えにて、越前府中へ。
「火を懸けよ」
されば、これを見て、・・・・・。
信長は、この役目を光秀と秀吉に命じた。
光秀と秀吉は、信長の意図するところを十二分に心得ていた。
「畏まって候」
この一事で、勝敗が決する。
そう、見ていた。
すなわち、木の芽峠に集結した一揆勢の背後を衝く作戦だった。
光秀と秀吉は、信長の切り札的な存在だった。
これが、信長の人物眼。
「ここぞ」
と、言う時の、光秀と秀吉。
この、二人の組み合わせ。
正に、適任・適役。
今風に言えば、必勝パターン。
・・・・・、なのである。
同様の場面は、志賀の陣でもあった。
これについては、後述する。
光秀と秀吉は、浜手の街道を北上した。
「だいらこへ」*、「海手に新城拵へ」*、とある。
こちらにも、一揆勢が砦を築いて待ち構えていた。
光秀と秀吉は、これを撃破した。
円強寺・若林長門父子、人数を出だし侯、
惟任日向・羽柴筑前両人として、屑(もののかず)ともせず追ひ崩し、
二、三百討ち捕り、両人の居城に乗り込み焼き払ひ、
信長は、満足した。
ことは、作戦通りに進んでいる。
八月十五日に、頸を敦賀へ進上侯て、信長へ御目に懸げられ侯。
**【参照】16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 小 182
一揆勢は、織田軍を待ち構えていた。
一、だいらこへ(大良越え)、
一、海手に新城拵へ、
光秀と秀吉は、府中に入った。
光秀と秀吉は、大良越えにて府中(福井県越前市府中)に入った。
龍門寺を奪取して、付近一帯を焼き払う。
八月十五日、夜に入り、府中龍門寺、三宅権丞楯籠り侯構へ忍び入り、
乗つ取り、近辺に放火侯。
これを見た一揆勢は、府中を目指して後退を始めた。
木ノ目峠・鉢伏・今城・火燧城にこれある者ども、
跡(後)を焼き立てられ、胆を潰し、府中をさして罷り退き侯を、
◎光秀と秀吉は、 一揆勢二千余を斬殺した。
斯くなれば、袋の鼠。
光秀と秀吉は、逃げ帰って来た一揆勢二千余を斬殺した。
「大量殺戮」
何とも、凄まじい場面である。
羽柴筑前守・惟任日向守、両人として、府中の町にて、
賀州・越州、両国の一揆二千余騎斬り拾てられ、
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
◎これが、光秀の実像である。
光秀は、躊躇せず。
目的のためには、手段を選ばず。
平然と、大殺戮を実行した。
すべては、「立身出世」。
これすなわち、「明智再興」。
その、ために、であった。
手柄の程、是非に及ばず。
(『信公長記』)
光秀には、この様な一面があった。
決して、清廉潔白な人物などではないのである。
目を覚ますべし。
フィクション等に騙されてはいけない。
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
秀吉、同。
秀吉もまた、これに同じ。
二人は、手柄を競い合った。
光秀と秀吉は、信長の命に忠実な走狗だった。
その光景が目に浮かぶ。
正に、一心不乱。
それは、「走狗」そのものだった。
信長の命に忠実な「猟犬」の姿そのものである。
飛鳥尽きて、良弓蔵(かく)る、
狡兎(こうと=うさぎ)死して、走狗(そうく=犬)烹(煮)らる、
(「史記」越王勾践世家)
【参照】4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 小 14
走狗煮らる。「史記」越王勾践世家
◎信長・光秀・秀吉、三人は、同じ穴の狢なのである。
楽市楽座、天下布武、下剋上。
道理で、波長が合うわけである。
「以心伝心」
「言わずもがな」
何しろ、同じタイプの戦国武将なのだから。
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
信長は、一揆勢を殲滅しようと考えていた。
信長は、一揆勢を容赦しなかった。
最初から、根絶やしにするつもりだったのである。
阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟、御赦免の御侘言申し上げ侯と雖も、
御許容なく、原田備中に仰せ付けられ、生害させられ侯。
信長は、敦賀から越前府中に入った。
信長の親衛隊は、一万余騎。
信長は、府中龍門寺に本陣を置いた。
十六日、信長、敦賀を御立ちなされ、
御馬廻り其の外一万余騎召し列れられ、
木の目峠、打ち越し、
府中龍門寺、三宅権之丞構へまで御陣を寄せらる。
信長は、街道警固のため今庄に福田三河守を配置した。
爰にて、福田三河守に仰せ付けられ、
路次御警固のため、今城にをかせられ侯。
信長は、朝倉景健(かげたけ)を赦さなかった。
下間筑後・下間和泉・専修寺、山林に隠れ居侯を、
引き出だし、頸を斬り、
是れを御宮笥(みやげ)として、
朝倉孫三郎、頸持ち来たり、御赦免の御侘言、申し侯と雖も、
御同心なく、
向駿河に仰せ付けられ、生害させられ候。
(『信公長記』)
景健は、朝倉義景の一族。
同氏、最重臣の一人。
天正元年1573、朝倉氏滅亡の時。
信長に、赦免された。
信長は、裏切り者を赦さない。
なお、もう一人の最重臣、朝倉景鏡*は、同二年1574、一揆勢に
よって、殺害されている。
*【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小 177
朝倉義景の最期。
朝倉景鏡は、義景の首を武生へ送り届けた。
【参照】16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 小 180
越前で、一向一揆が蜂起した。
前波吉継が殺害された。
越前は、一揆持ちの国になった。
⇒ 次へつづく 第185話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
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