本能寺の変1582 第30話 6光秀と信長 1使者光秀 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第30話 6光秀と信長 1使者光秀
◎永禄十一年1568、春。
本能寺の変の15年前。
光秀が、歴史に登場するのはこの辺りからである。
◎光秀は、細川藤孝に仕えていた。
後に、幕臣(足軽)になることを考えれば、藤孝の家臣というよりも、
もっとフリーな立場、食客・協力者とも言うべき存在だったのでは
ないか。
◎光秀は、細川藤孝と密接な関係にあった。
藤孝が、苦境に陥っていた時期。
信長が、美濃を制圧。
そして、「天下布武」。
これすなわち、準備完了の意。
「上洛」
信長の意思表示である。
正に、ベストタイミング。
となれば、・・・・・。
「交渉再開」
藤孝と光秀は、表裏一体となって、信長との交渉に当たった。
その様に考える。
◎フロイスの証言。
「信長の治世の初期」とあるから、この当時のことである。
なお、これは本能寺の変後に記述された。
信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。
彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、
公方様の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していたのであるが、
◎光秀は、出来る男。
◎光秀は、優れた能力の持主だった。
フロイスは、そのことを次の様に表現している。
信長は、イエズス会の庇護者。
光秀は、その信長を殺害した男(天正十年六月二日)。
その事があった。
彼らは、光秀に対して悪感情をいだいていた。
その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、
主君とその恩恵を利することをわきまえていた。
(『日本史』)
◎光秀は、細川藤孝の「中間」だった。
以下は、山崎の合戦(天正十年六月十三日)で、秀吉に敗れた光秀が、
逃げる途中で一揆勢に討ち取られたことを記録したものである。
この中にも、これに関する記述がある。
◎多聞院英俊の証言。
光秀は、まだ出世前。
英俊は、その存在すら知らなかった。
一、惟任日向守は、十二日勝龍寺より迯(逃)げて、山階(科)にて、
一揆にたたき殺され了(おわんぬ)、
首もむくろ(骸)も、京へ引き了と云々、
浅猿(あさまし)〃〃、
細川ノ兵部太夫が中間にてありしを、これ引き立て、
中國の名誉に、信長、厚恩にて、これ召し遣はされ、
大恩を忘れ、曲事(くせごと=謀叛)を致し、
天命此(かく)の如し、
(「多聞院日記」天正十年六月十七日条)
◎光秀は、没落していた。
「彼はもとより高貴の出ではなく」、
「細川ノ兵部太夫が中間にてありしを」、とある。
◎光秀の悲願、明智の再興。
◎光秀は、これを好機と捉えた。
◎光秀、この時、すでに、四十代。
正に、人生最後のチャンス!
その様な、年齢になっていたのである。
これらについては、後述する。
◎雪解けとともに、交渉が再開された。
越前、一乗谷の義昭。
美濃、岐阜の信長。
国境は、山岳地帯。
冬は、雪に閉ざされる。
◎幾度も、細川藤孝の使者が往来した。
一乗谷と岐阜の間を。
「入洛の儀につきて」
書状が行き交った。
「信長、厳重に言上」
義昭 → 細川藤孝 → 使者 → 信長。
義昭 ← 細川藤孝 ← 使者 ← 信長。
◎この使者こそ、明智光秀だった。
おそらく、この時の使者が光秀だったのではないか?
あくまでも、推論であるが・・・・・。
残念ながら、これを裏づける史料はまだ見つかっていない。
◎そして、交渉成立。
義昭の上洛が決定した。
その次第が、話し合われた。
◎義昭は、上杉謙信へ上洛を伝えた。
同年(永禄十一年)、七月。
義昭は、謙信に美濃へ移座することを伝えた。
入洛の儀につきて、信長、厳重に言上、
先ず、濃州に至り御座を移さるべきの由申すの間、近日発足候、
朝倉義景も忠節を尽くす覚悟でいるから、
その方(謙信)も協力せよ。
義景、弥(いよいよ)別儀なく、無二の覚悟に候、
各(おのおの)、申し談じ、馳走、偏(ひとえ)に頼む思し召しに候、
具(つぶさ)に、智光院申すべく候也、
七月十二日 (花押)
上杉弾正少弼とのへ
(包紙ウハ書)
「上杉弾正少弼とのへ」
(「上杉家文書」)
⇒ 次へつづく 第31話 6光秀と信長 2美濃立政寺
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