本能寺の変1852 その一因 一、土佐の長宗我部 小79~80 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、土佐の長宗我部 小79~80
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その一因 一、土佐の長宗我部 第79話 小79
光秀は、大永四年1524±四年頃の生れである。
1530年代は、光秀の少年時代~思春期に当たる。
同じ頃、美濃。
斎藤道三の下剋上が始まった (①~⑦) 。
①長井長弘、死去。
②長井新左衛門、死去。
③ここで、長井新九郎規秀が表舞台に登場する。
後の斎藤道三である。
④道三の国盗りは、父子二代にわたるものだった。
⑤父、新左衛門が基盤をつくった。 「春日文書」
⑥その子、道三が完成させた。 「春日文書」
⑦道三は、下剋上の化身。
目的のためには、手段を選ばぬ男だった。
以下は、これ以後1540~に起きた事件である。
天文十六年1547。
道三が、土岐頼純を殺害した。 「春日文書」
天文十九年1550。
道三が、土岐頼芸を追放した。 『信長公記』
ここに、道三の下剋上、成る。
その一因 一、土佐の長宗我部 第80話 小80
同じ頃、尾張。
織田信秀が勢力を拡大していた (①~⑧) 。
信長の父である。
①信秀には、経済力があった。 「言継卿記」
②織田氏のルーツは、越前にあり。
織田氏は、元々、越前の守護、斯波氏の守護代だった。
信秀の織田氏は、その支流である。
代々、「弾正忠」を名乗った。
③尾張は、八郡。 『信長公記』
④尾張の守護は、斯波義統。
⑤上四郡は、岩倉織田氏。 『信長公記』
⑥下四郡は、清洲織田氏。 『信長公記』
⑦信秀の織田弾正忠家は、清洲織田氏の一家老にすぎなかった。
『信長公記』
⑧信秀は、尾張随一の実力者に成り上がった。 『信長公記』
信長が生まれた。 「イエズス会日本年報」
天文三年1534、五月十二日。
信長は、下剋上の申し子。
⇒ 次へつづく
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「本能寺の変」
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