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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 42~53 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

*42~53は、バックナンバーです。

42 永禄九年(1566)、春。

  細川藤孝は、尾張にいた。
  義昭の期待は、大きかった。           「和田家文書」

43 藤孝は、信長に入れ込んだ。

  結果、家中に二つ流れが生じた。
  藤孝は、尾張に踏みとどまった。
  ところが、状況が変わった。           「和田家文書」
  長引くのには、理由があった。          「和田家文書」
  義昭は、不安だった。              「和田家文書」

44 細川藤孝は、信長から言質を得た。

  義昭の家中は、沸き立った。
  義昭は、これを各所へ知らせようとした。

45 誰もが、上洛間近と思った。      「多聞院日記」 

  義昭の御内書である。              「多聞院日記」
  信長は、確かに、約束した。           「多聞院日記」
  これには、家康も参陣する。           「多聞院日記」
  多聞院英俊がこれを書き写した。         「多聞院日記」
  しかし、糠喜びに過ぎなかった。         「多聞院日記」

46 ここで、状況が一変した。

  三好三人衆が坂本に進出した。           「言継卿記」
  義昭は、六角承禎の離反を知った。

47 武田信玄がこれを見ていた。

  斎藤氏と武田氏は、同盟関係にあった。       「中島文書」
  義昭は、美濃と尾張の和睦を進めた。        「中島文書」
  斎藤氏は、信長を信用していない。         「中島文書」
  斎藤氏は、和睦することに決めた。         「中島文書」
  細川藤孝は、そのために奔走していた。       「中島文書」

48 信長は、上洛を断念した。        「中島文書」

  信長は、斎藤竜興を信用していない。
  信長は、注意深く、用心深く、疑い深く、思慮深い。
  義昭は、甘かった。
  幕府の権威は、疾(と)うの昔に失せていた。

49 義昭は、大きなショックをうけた。    「中島文書」

  斎藤龍興は、三好三人衆と結託していた。      「中島文書」
  細川藤孝は、判断を誤った。

50 信長は、嘲笑の的となった。       「中島文書」

  信長は、再び、美濃を攻めた。           「中島文書」
  これで、和睦は消滅した。
  義昭は、失望した。
  細川藤孝は、面目を失った。

51 義昭は、矢島から若狭へ向かった。

  山科言継の証言である。「言継卿記」
  山科言継は、信長のことをよく知っていた。
  若狭は、内乱状態にあった。「多聞院日記」

52 信長は、河野島で斎藤龍興に敗れた。   「中島文書」

  信長の決断は、正しかった。            「中島文書」
  隙を見せれば、命を取られる。
  信長は、再認識させられた。

53 義昭は、若狭から越前敦賀へ移った。

  朝倉義景がこれを支援した。
  義景は、信長の一つ年上。
  義昭は、信長から謙信へ大きく舵を切った。     「歴代古案」
  義昭は、上杉と北条の和睦を推し進めた。
  となれば、当然、上杉派の発言力が増大する。    「歴代古案」
  細川藤孝は、肩身の狭い状況に追い込まれた。

 
          ⇒ 次回へつづく


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