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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 1 11~13 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 1 信忠、出陣 

*11~13は、バックナンバーです。

11 信長は、甲斐を攻めた。         『信長公記』

  先陣は、織田信忠。               『信長公記』
  信長は、光秀に参陣を命じた。          『信長公記』 

12 信忠は、破竹の勢いで進撃した。     『信長公記』

  信忠は、高遠城を攻めた。            『信長公記』
  信忠は、勇猛だった。              『信長公記』
  わずか一日で、高遠城を攻略した。        『信長公記』
  これが、武田最後の戦いになった。        『信長公記』
  仁科信盛の首。                 『信長公記』

13 信忠は、後継者として申し分のない人物だった。

                          『信長公記』   
  信忠は、逞しい戦国武将だった。         『信長公記』
  信長は、これに満足していた。          『信長公記』
  太田牛一がその証人である。           『信長公記』
  織田家の前途は、大きく開けていた。


          ⇒ 次回へつづく

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