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本能寺の変 1582 上総介信長 3 197 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 3 三好長慶の下剋上 

義輝は、山中を彷徨った。

 船岡山 → 杉坂 → 山国 → 龍華

  二日、丙子(ひのえね)、晴
  武家は、杉坂に御座と云々、

  五日、乙卯(きのとう)、陰、午刻小雨降る、
  申の刻(16時頃)より終夜雨降る、
  武家御所は、山国通られ、
  龍花へ移らるゝと云々、
  前右京兆入道(細川晴元)、同御供と云々、

長慶は、義輝に従う者たちの領地没収を宣言した。

 これを聞きつけた従者たちは、急ぎ、都へ戻った。

  十四日、
  昨夜、高倉新亜相、上洛の由候間、罷り向かひ、見参す、
  龍花に於いて、祗候の者、諸知行分、
  三好、相渡すべからざるの由、申し候間、此の如しと云々、
  義利に違ひ、面目を失ふの由、申し候ひおわんぬ、

義輝に、付き従う者四十人。

 そのため、斯くの如し。
 これでは、幕府として機能できない。

  奉公衆も、前(さきの)御供の時、百廿人なり、
  只今、祗候の輩、四十余人これ有りと云々、
  大概、上洛すと云々、
  大樹(義輝)、一向(全く)、人無しと云々、
  御不運の至りなり、
                          (「言継卿記」)

義輝は、朽木へ落ち延びた。

 義輝は、ここで、五年ほど過ごすことになる。

  三十日、
  義藤(義輝)、近江龍華ヨリ、同国朽木ニ徙(うつ)ル、
                          (「史料綜覧」) 


          ⇒ 次回へつづく


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