本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 1 39 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と細川藤孝 1 永禄の変
義輝の次弟覚慶は、捕らわれの身となった。
一乗院に幽閉された。
以後、彼の人生は大きく変わることになる。
然うして、二男御舎弟南都一乗院義昭、当寺(興福寺)御相続の間、
御身(義昭)に対し、聊(いささ)か以て野心御座なきの旨、
三好修理大夫・松永弾正かたより宥(ゆる)し申され侯。
尤(もっと)もの由仰せられ侯て、暫(しばらく)、御在寺なさる。
この覚慶こそ、後の足利義昭である。
義昭は、天文六年(1537)の生れ。
信長の三つ年下。
この時、29歳。
父は、室町幕府第十二代将軍・足利義晴。
母は、関白・近衛尚通の娘(慶寿院)である。
義輝は、一つ上。
同腹の兄である。
幼くして、母方の叔父にあたる時の関白近衛稙家の猶子となり、
奈良興福寺の一乗院に入って、「覚慶」と名乗った。
永禄五年(1562)、一乗院門跡を嗣ぐ。
義昭は、奈良を脱出した。
夜陰に紛れて、姿を消した。
甲賀の和田惟政の館へ入った。
或る時、南都を潜(ひそか)に出御ありて、
和田伊賀守を御憑(たの)みなされ、
(『信長公記』)
こちらは、英俊の記録。
廿八日夜、一乗院覚慶 僧都(そうず=僧正の次位)、廿十九才、
寺を御離れおわんぬ、
御落所、翌日にもしれず、
甲賀の和多(田)ヵ城へ入られおわんぬ、
去る五月十九日、将軍御生害、三十歳、
御舎弟、鹿苑院殿、同上、廿一歳、
(「多聞院日記」)
⇒ 次回へつづく
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