本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 43 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と細川藤孝 2 上洛不発
藤孝は、信長に入れ込んだ。
生年も同じ。
波長も合う。
だが、やはり、信長自身の姿勢がそうだったのだろう。
その時までは、・・・・・。
結果、家中に二つ流れが生じた。
すなわち、斯くの如し。
一、越後の上杉。
大覚寺義俊がこれを推した。
謂わば、保守派。
一、尾張の織田。
これには、細川藤孝・和田惟政。
となれば、こちらは革新派となる。
微妙な空気が流れ始めた。
藤孝は、尾張に踏みとどまった。
同年(永禄九年1566)、六月。
信長のもとを離れず。
交渉は、「詰めの段階」に入っていた。
ところが、状況が変わった。
藤孝は、義昭へ、和田惟政を派すよう要請した。
以下は、義昭が和田惟政に送った書状である。
これだけでは、まだ、よくわからない。
尾州より、兵部大輔申し上げ候、
早々、惟政、罷り下るべくの由、申し候間、
明日にも、小者一人にてなりとも、罷り下るべき事、頼み入り候、
長引くのには、理由があった。
信長は、迷っていた。
何事かを言ったらしい。
尾張守(信長)申すに付き、
上洛の事。
必ず、成し遂げねばならぬ。
とにかく、尾張へ急げ。
子細の由候へども、
我々、此の分、申し付くる由にて、
早々、先々、尾州へ下国の事肝要に候、
急度、織田参洛候様、馳走、此の節に候、
義昭は、不安だった。
断られれば、すべてが水泡に帰す。
義昭は、必死だった。
存じ申し上げ候如く、方々調略の子細候間、連々候ては如何候旨、
如何様にも、出勢の事、急ぎ申し度く候、
呉々、先々、明日にも下国頼み入り候、
かしく、
(義秋)
六月十一日、 (花押)
(宛名ウハ書)
「
和田伊賀守とのへ 」
(「和田家文書」)
⇒ 次回へつづく
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