本能寺の変 1582 光秀と信長 1 58 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 1 邂逅
雪解けとともに、交渉が再開された。
越前、一乗谷の義昭。
美濃、岐阜の信長。
国境は、山岳地帯。
冬は、雪に閉ざされる。
幾度も、使者が往来した。
一乗谷と岐阜の間を。
「入洛の儀につきて」
書状が行き交った。
「信長、厳重に言上」
義昭 → 細川藤孝 → 使者 → 信長。
義昭 ← 細川藤孝 ← 使者 ← 信長。
そして、交渉成立。
義昭の上洛が決定した。
その次第が、話し合われた。
義昭は、上杉謙信へ上洛を伝えた。
同年(永禄十一年1568)、七月。
義昭は、謙信に美濃へ移座することを伝えた。
入洛の儀につきて、信長、厳重に言上、
先ず、濃州に至り御座を移さるべきの由申すの間、近日発足候、
朝倉義景も忠節を尽くす覚悟でいるから、
その方(謙信)も協力せよ。
義景、弥(いよいよ)別儀なく、無二の覚悟に候、
各(おのおの)、申し談じ、馳走、偏(ひとえ)に頼む思し召しに候、
具(つぶさ)に、智光院申すべく候也、
七月十二日 (花押)
上杉弾正少弼とのへ
(包紙ウハ書)
「上杉弾正少弼とのへ」
(「上杉家文書」)
⇒ 次回へつづく
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