本能寺の変1582 第182話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第182話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
天正三年1575、五月。
次、三河長篠、武田勝頼。
各個撃破、第二弾。
東、長篠の合戦。
信長は、武田軍をへ撃滅した。
五月 一日 勝頼が長篠城を包囲した。
〃 〃 家康は、信長へ後詰めを要請した。
〃 十三日 信長が出陣した。
〃 十四日 信長は、岡崎に軍勢を進めた。
〃 〃 信長は、強力な鉄砲隊を率いていた。
〃 〃 信長には、それを可能にする経済力があった。
〃 十六日 信長は、牛久保に着いた。
〃 十七日 信長は、野田へ軍勢を進めた。
〃 十八日 信長は、極楽寺山に本陣を置いた。
〃 〃 信長は、囮部隊を編成した。
〃 十九日 信長は、急ピッチで馬防柵を構築した。
〃 二十日 勝頼が寒狭川を渡った。
〃 〃 武田の軍勢、一万五干。
〃 〃 信長は、別動隊を出した。
〃 二十一日 別動隊が鳶の巣山の武田勢を急襲した。
〃 〃 信長は、五人の奉行に鉄砲一千挺の指揮を命じた。
〃 〃 戦闘開始、武田軍が前進した。
〃 〃 武田軍は、壊滅した。
光秀は、長篠の合戦に参陣していない。
同、五月二十四日。
光秀は、坂本城にいた。
この日、吉田兼見の来訪があった。
「三州表の儀」
信長からの書状を披瀝した。
長篠の合戦には、参陣していない。
廿四日、壬(みずのえ)戌(いぬ)、
明十見舞いのため、坂本へ下向しおわんぬ、
薫衣香(くのえこう)*十袋、持参、
今度、三州表の儀、信長より明智に対し仰せ上げらる御折帋、
披見せしむなり、
悉(ことごと)く、討ち果たすの儀、必定なり、
公私、安堵しおわんぬ、
今夜、尾黒三十郎所に一宿しおわんぬ、
(「兼見卿記」)
*薫衣香 衣服にたきしめるための薫物。
これらについては、後述する。
同年、八月。
その次、越前一向一揆。
各個撃破、第三弾。
北、越前一向一揆殲滅戦。
信長は、敦賀へ向かった。
同十二日。
信長、出陣。
岐阜を発った。
垂井、泊。
八月十二日、越州へ御進発。
其の日は、捶井に御陣取り。
同十三日。
小谷城、着。
十三日、大(小)谷、羽柴筑前守ところに御泊。
此の時、惣(総)人衆へ、筑前守ところより兵粮を出だされ、
同十四日。
信長、敦賀に到着。
十四日、敦賀に御泊り。
武藤宗右衛門(舜秀きよひで)ところに御居陣。
一揆勢は、織田軍を待ち構えていた。
彼らは、織田軍の進入路に多くの城塞を築き、迎撃態勢をととのえて
いた。
御敵相拘へ侯城々。
一、虎杖(いたどり)の城*1、丈夫に拵(こしら)へ、
下間(しもつま)和泉大将にて、賀州・越州の一揆ども罷り出で
相拘(かか)へ侯なり。
一、木の目(芽)峠、石田*2の西光寺、大将として、一揆ども引率し、
在陣なり。
一、鉢伏の城*3、専修寺・阿波賀三郎兄弟、越前衆相拘(かか)へ。
一、今城*4、
一、火燧(ひうち)ヶ城*5、
両城、丈夫に拵へ、往古の如く、のうみ(能美)川・新道川、
ニツの川の落ち合ふを関切り、水を湛(たた)へ、
下間筑前守大将にて相拘(かか)へ。
一、だいら(大良)こへ(越え)、すい津(杉津)の城、
大塩*6の円強(光)寺、加賀衆相加はり、在城なり。
一、海手に新城拵へ、若林長門・息甚七郎父子大将にて、
越前衆、警固に出でらるゝなり。
一、府中*7の内、龍門寺拵へ、三宅権丞これあり。
かくの如く、塞(つまり)々取り続き、足懸かり構へ、
堅固に相拘ふべきの旨に侯。
(『信長公記』)
*1虎杖の城 福井県南条郡南越前町板取
*2石田 〃 鯖江市石田
*3鉢伏の城 〃 南条郡南越前町二ツ屋
*4今城 〃 〃 〃 今庄
*5火燧ヶ城 〃 〃 〃 〃
*6大塩 〃 越前市大塩町
*7府中 〃 〃 府中
光秀は、敦賀にいた。
信長の到着を待っていたものと思う。
光秀は、このことを知っていた。
木の芽峠は、山中の一本路。
一揆勢は、その一帯に、数多の砦を築き、そこに、軍勢の大半を配置
していた。
正に、要塞。
一揆勢の巣窟の如き様相を呈していた。
「今や遅し」
織田軍の侵入を、手薬煉(てぐすね)引いて、待ち構えていたのである。
光秀は、周辺の事情、地理・地形に明るい。
そして、用心深い。
当然、そのことを知っていた。
【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小 173
光秀は、来襲の時を予測出来た。
これらのことからも、よくわかる。
光秀は、この辺りの地理に精通していた。
⇒ 次へつづく 第183話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
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