本能寺の変1582 第198話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第198話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
信長は、正親町天皇に感謝の意を申し伝えた。
同十八日。
信長は、正親町天皇と誠仁親王から薫香と唐墨を下賜された。
それを謝すとともに、勅使勧修寺晴豊に越前の戦況を奏上するよう
頼んだ。
書状の宛先が「勧修寺大納言殿」となっている。
これは、晴豊の父晴右のこと。
当国在陣について、勅使を立てられ候、
殊に御作の薫物幷(ならび)に唐墨、両御所様より拝領、
即ち、頂戴忝(かたじけな)く存じ候、
此の表の趣、是れより言上致すべく候と雖も、
一揆の類、還って如何と、遠慮仕り候、
然れども、仰せ下さるゝの条、冥加なきの次第に候、
此れらの旨、宜しく叡聞に達せらるゝ事、大慶たるべく候、
恐々謹言、
九月十八日 信長(黒印)
勧修寺大納言殿
(「総見寺文書」「織田信長文書の研究」)
信長と朝廷の関係について。
正親町天皇は、永正十四年1517の生れ。
この年(天正三年)、五十九歳。
信長との年齢差は、十七歳ほどある。
朝廷は、困窮していた。
父は、後奈良天皇。
明応五年1496~弘治三年1557。
その御宇(御代)。
織田家は、信秀の代。
朝廷は、衰微していた。
父信秀は、朝廷に四千貫もの大金を献上している。
信長の父信秀は、勤王家であった。
天文十年1541、伊勢外宮仮殿造替費を負担。
これにより、三河守に任ぜられる。
天文十二年1543、内裏の修繕費として四千貫もの大金を献上した。
十四日、
或る人﹅、内裏の四面の築地の蓋を、
尾張のをた(織田)の弾正と云ふ物(者)、
修理して進上申すべきの由申し、
はや、料足、四千貫計(ばか)り上せおわんぬと云々、
事実に於いては、不思儀の大營(営=おこない)歟(か)、
(「多聞院日記」二月十四日条)
これに対して、朝廷より、勅使が下向。
天皇の謝意を伝えた。
信秀にとっては、面目この上もなきことであった。
天文二十一年1552、信秀、死去。
信長が家督を引き継いだ。
上総介を僭称(自称)。
朝廷に目を向ける余裕がなかった。
朝廷は、経済的に最悪の状態にあった。
弘治三年1557、先帝の崩御により践祚。
正親町天皇の御代が始まった。
しかし、困窮がつづく。
経済的に、最悪の状態にあった。
永禄二年1559、信長は上洛して将軍義輝に謁見した。
だが、朝廷には見向きもせず。
この時は、接触していない。
永禄三年1560、桶狭間の合戦。
信長の武名が天下に鳴り響いた。
古今無双の名将。
永禄九年1566、家康が朝廷に奏請し、三河守に任ぜられた。
永禄十年1567、信長は尾張守を賜った。
家康に先を越されたわけである。
今度、国々本意に属するの由、尤も武勇の長上、天道の感応、
古今無双の名将、弥(いよいよ)、勝に乗ぜらるべきの条、勿論たり、
就中(なかんづく)、
両国御料所、且(かつが)つ、御目録を出さるゝの条、
厳重に申し付けらるれば、神妙たるべきの由、綸命此の如し、
これを悉(つく)せ、以って状す、
永禄十年十一月九日 右中弁(勧修寺晴豊)(花押)
織田尾張守殿
(「織田信長文書の研究」)
美濃を制圧して、余裕が生まれたのか。
この頃からだろう。
朝廷との距離が急激に縮まった。
信長は、次々と朝廷庇護の施策を打ち出した。
そして、永禄十一年1568。
信長が義昭を擁して上洛。
これを境に、状況が一変した。
以後、信長は、次々と朝廷庇護の施策を打ち出した。
御料所の回復、内裏の修理、儀礼の復活、神宮の造替、等々。
また、公家たちの生活も安定させた。
朝廷にとって、これは有り難い。
信長は、朝廷を再興した。
朝廷は、甦った。
すべては、信長のおかげ。
信長は、強力なスポンサー。
その貢献度は、大きい。
信長は、朝廷を巧みに利用した。
なお、これは一方通行ではない。
朝廷、すなわち、至高の権威。
信長は、これを巧みに利用した。
要所々々で。
いわば、「切り札」。
その利用価値は、高い。
信長と朝廷。
両者の関係は、きわめて良好だった。
⇒ 次へつづく 第199話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
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