本能寺の変 1582 光秀の苦悩 3 18 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の苦悩 3 信長の猜疑心
明智の前途には、暗雲が立ち込めていた。
光秀の、心の奥底。
知る者など、誰もいない。
当主なればこそ。
光秀は、聡い男。
「先行のこと」
考えるほどに、見通しが暗くなる。
「取るべき道」
苦悩の日々がつづいていた。
なるほど、「持てる者」には成った。
光秀は、不遇の日々を送っていた。
貧しかった。
何もなかった。
「持たざる者」、だった。
しかし、「志」があった。
そして、「実行力」があった。
そこに、「幸運」が訪れた。
永禄十一年(1568)。
信長と出会う。
ここから、である。
信長の人物眼。
光秀の人生は、大きく開けて行く。
正に、水を得た魚。
以後、出世街道を驀進する。
志賀一郡、拝領。
元亀二年(1571)、九月。
信長は、叡山を焼討した。
光秀は、この戦いで大きな手柄を上げた。
信長は、躊躇しない。
「火を懸けよ」
叡山は、灰燼と化した。
九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂・三王廿一社を初め奉り、
霊仏・霊社・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、
灰燼(かいじん)の地となすこそ哀れなれ。
僧侶ばかりでなかった。
麓の老若男女あわせて、数千人が殺害された。
山下の男女老若、右往左往に癈忘(はいぼう)致し、取る物も取り
敢へず、
悉(ことごと)く、かちはだしにて、八王子山へ迯(逃)げ上り、
社内へ迯げ籠(こ)み、、
諸卒、四方より鬨声(ときのこえ)を上げて攻め上る。
僧俗・児童・智者・上人、一々に頸(くび)をきり、
信長の御目に懸け、
是れは、山頭に於いて、其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、
其の外、美女・小童、其の員(かず)をも知らず召し捕り、召し列ね、
御前へ参り、
悪僧の儀は是非に及ばず、是れ(私たち)は御扶(たす)けなされ候へと、
声々に申し上げ候と雖も、
中々、御許容なく、
一々に頸(くび)を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。
数千の屍(しかばね)、算を乱し、哀れなる仕合せなり。
信長は、溜飲を下げた。
年来の御胸朦(きょうもう)を散ぜられ訖(おわ)んぬ。
信長は、光秀に志賀一郡を与えた。
あわせて、築城を命ず。
光秀は、城持大名になった。
さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地候ひしなり。
丹波一国、拝領。
天正七年(1579)、十月。
光秀は、丹後・丹波二ヶ国を制圧した。
報告のため、安土城へ。
献上の品、しじら百反。
光秀、名誉の瞬間である。
十月廿四日、惟任日向守、丹後・丹波両国一篇に申し付け、
光秀は安土へ参り、御礼。
其の時、志々良百端進上侯ひき。
(『信長公記』)
同八年(1580)。
丹波拝領。
光秀は、ついに、国持大名に上り詰めた。
なお、丹後は細川藤孝に与えられた。
⇒ 次回へつづく
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