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本能寺の変1582 第10話① 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第10話① 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 

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重要 ◎目次

◎織田家は、急激に拡大していた。

 信長は、有能な人物を求めた。
 すなわち、「役に立つ」者。

◎信長の人物眼。

 信長は、鋭敏な感覚の持ち主だった。
 人を見る目に優れていた。

◎光秀は、出来る男(切れ者)。

 結果、光秀の今がある。
 光秀は、「役に立つ」男。
 出来る男なのである。
 すなわち、切れ者。

◎信長の人事評価。

 「役に立つ」のか、「立たぬ」のか。
 信長は、その様な目で重臣たちを見ていた。
 人事評価である。

◎光秀が、その基準だった。

 信長は、光秀を基準として、重臣たちを評価していた。
 そして、事件が起きた。

◎信長は、無駄を嫌った。

 信長は、合理主義者。
 無駄を嫌った。 

◎佐久間信盛の一件。

 織田家中に、激震が走った。
 信盛は、全く、予期していなかった。
 否、誰一人として、・・・・・。

◎信長は、不意を衝いた。

 それは、ある日、突然、やって来た。

◎役に立たねば、粛清される。

 これが、戦国時代の風潮。
 「粛清」
 恐ろしい世の中だった。

 重臣筆頭者といえども、容赦せず。
 信長は、恐ろしい男なのである。 

 この事、肝に銘ずべし。

 以下、それについて、説明する。

◎石山本願寺、退城。

 元亀元年1570、戦いが始まった。
 それから、十年余。
 天正八年1580、ここに、ようやく終わった。
 長い戦いだった。

  去る程に、新門跡(教如)、大坂渡し進(まい)らすべきの御請けなり。

  天正八年、庚辰(かのえたつ)、
  八月二日、新門跡、大坂退出の次第。

◎信長は、執念深い。

 信長は、ついに、本願寺を降した。
 執念である。

  御勅使、近衛殿・勧修寺殿・ 庭田殿。
  右の下使、荒屋善左衛門。
  信長公より相加へらるゝ御使、宮内卿法印(松井友閑)・佐久間右衛門
  (信盛)。
  大坂請取り申さるゝ御検使、矢部善七郎。

◎蛛の子をちらすが如く。

 退山時の様子である。

  八月二日、未の刻(14時頃)、
  雑賀・淡路島より、数百艘の迎へ船をよせ、
  近年相拘(かか)へ侯端城の者を初めとして、
  右往左往に、縁々を心懸け、
  海上と陸と、蛛(くも)の子をちらすが如く、ちり々々に別れ侯。

◎伽藍炎上。

 やがて、出火。
 「西風来たりて」
 「一宇も残さず」
 三日三晩燃えつづけた。
 伽藍は、全て消失した。

  弥(いよいよ)、時刻到来して、たへ松の火に、西風来たりて、
  吹き懸け、
  余多の伽藍、一宇も残さず、夜日(よるひる)三日、
  黒雲となつて焼けぬ。

                         (『信長公記』)

◎信盛の油断である。

 教如の仕業とされる。
 「渡さぬ」
 そう、思っていた。
 
 信長は、誇り高い男。
 不快だった。
 「一杯食わせられた」、のだから。
 腹が立った。
 なれど、忍耐。
 心の内に留めた。

 総指揮官は、佐久間信盛。
 警備上の問題は、・・・・・。
 「油断」
 何やら、雲行きが怪しくなって来た。

  一、去る二日、大坂、城渡しおわんぬ、
    近衛殿請け取られ、
    渡して後、やく(焼)る様に用意しけるか、
    無残、二日一夜、明け三日までに、皆々、焼けおわんぬ、
    過分に、米・塩・噌・資財、悉(ことごと)く以って焼け、
    国家の費(つい)えなり、

    本願寺上下、雑賀への(退)きおわんぬと云々、

    天文元(1532)、一揆の比(ころ)より歟、
    山階(科)をの(退)き、当年に至り、四十八、九年歟、
    栄花(華)にほこり、天下より、もちせき富貴のところ、
    一時に頓滅、
    盛衰、眼前、々々、
                   (「多聞院日記」八月五日条)



 ⇒ 次へつづく  第10話② 4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 


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