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本能寺の変1582 第201話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第201話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人 

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重要 ◎目次

「筒井へ、惟任日向守より申し来たる」

多聞院英俊は歴史の証人。

遊行上人の奈良来訪は、史実である。

 天正八年1580、二月十四日。
 多聞院英俊の日記に、そのことが書かれている。
 遊行上人は、六十三歳。
 大人数だった。
 光秀から順慶へ。
 「馳走」、とある。
 先の「遊行上人三十一祖京畿御修行記」と内容が一致する。

  十四日、
  一、遊行上人、昨日、極楽坊へ来たり、
    上人は、初めより卅六代目なり、
    此の上人は、六十三才と云々、
    人数大勢これ在り、
    筒井へ、惟任日向守より申し来たる、
    馳走と云々、
                   
【 重史 026】(「多聞院日記」)

◎光秀は、誇り高い男。

 我が家、我が先祖に強い誇りを抱いていた。

◎光秀は、美濃国住人、土岐の随分衆なり。

 光秀は、美濃の出身。
 元、土岐氏の家臣だった。

  【参照】目次小 9光秀という男 2立入宗継の証言 第53~54話 
    第53話
    
「立入左京亮入道隆佐記」
    前代未聞の大将なり。        「立入左京亮入道隆佐記」
    立入宗継は、歴史の証人。      「立入左京亮入道隆佐記」
    光秀は、土岐氏の家臣だった。    「立入左京亮入道隆佐記」
    弓取りはせんじてのむへき事に候。  「立入左京亮入道隆佐記」
    光秀は、随分衆だった。

    第54話
    
立入宗継は、朝廷の御蔵職。
    立入宗継は、光秀のことをよく知っていた。  「立入宗継文書」
    光秀は、美濃の出身である。     「立入左京亮入道隆佐記」
    光秀は、美濃に親戚がいた。           「兼見卿記」

◎土岐氏は、美濃源氏の嫡流家であった。

◎明智氏は、土岐氏の一族である。

 それ故、土岐明智とも呼称されていた。

◎光秀の明智氏は、その庶流だった。

 明智氏の嫡流家にあらず。
 その庶流だった。
 歴とした源氏の家柄である。 

  【参照】目次小 9光秀という男 3土岐氏 第55~58話 
    第55話
    
土岐氏は、清和源氏の一流である。
    源頼光が摂津源氏の祖とされる。
    土岐氏は、美濃源氏の嫡流家であった。
    土岐氏は、鎌倉期に美濃に土着した。
    光衡が土岐氏の初代とされる。
    土岐頼貞の時、初めて美濃の守護になった。
    以来二百余年、土岐氏は美濃の守護を歴任した。

    第56話
    
土岐頼遠は、足利尊氏の時代の人物である。
    室町時代は、この尊氏から始まった。
    頼遠は、婆娑羅大名。
    室町幕府は、十五代、240年つづいた。 

◎光秀は、土岐頼康を尊崇していた。

 一族ならば、当然であろう。
 頼康は、文武両道の人。
 光秀にとって、憧れの人だった。

  【参照】目次小 9光秀という男 3土岐氏 第55~58話 
    第57話
    
土岐頼康は、濃・尾・勢、三ヶ国の守護を兼任した。
    頼康は、土岐氏の全盛期を築いた。
    頼康は、文武両道の人であった。
    光秀にとって、土岐頼康は憧れの人だった。
    光秀には、頼康と相通じるものがあった。
    土岐氏は、土着性のきわめて強い一族だった。
    土岐氏は、一族の結束が強かった(桔梗一揆)。
    土岐氏は、一族の数が多い。
    明智氏も、その様な家の一つだった。
    光秀の体内には、土岐の血が脈々と流れていた。

◎光秀は、土岐の歴史から教訓を得た。

◎一、主君ならばこそ、油断すべからず。

 土岐頼康の主君は、将軍足利義満。
 光秀の主君は、織田信長。
 そのことが根底にあった。

  【参照】目次小 9光秀という男 3土岐氏 第55~58話 
    第58話
    第三代将軍足利義満は、土岐氏を危険と見た。
    義満は、将軍専制政治を目指した。
    義満は、富士を遊覧している。
    義満は、有力守護の排除を画策した。
    土岐頼康が死んだ。
    土岐康行が頼康の跡を引き継いだ(世安家)。
    義満は、康行を挑発した。
    康行は、罠に嵌まった(土岐康行の乱)。
    康行は、没落した。
    義満は、土岐頼忠を美濃の守護に任じた(西池田家)。
    土岐氏は、解体された。
    桔梗一揆は、崩壊した。
    以後、土岐氏は衰退への道を歩む。

◎光秀は、粛清を怖れていた。

◎一、頼むべきは、己の力ただ一つ。

◎一、判断を違えれば、消滅する。

 土岐康行を、見よ。 

  【参照】目次小 9光秀という男 4教訓 第59話 
    第59話
    
光秀は、土岐の歴史から教訓を得た。
    一、主君ならばこそ、油断すべからず。
    一、頼むべきは、己の力ただ一つ。
    一、判断を違えれば、消滅する。
    光秀の脳裏には、常に義満と信長があった。
    光秀は、土岐康行を、自身と重ね合わせた。
    光秀は、粛清を怖れていた。



 ⇒ 次へつづく 第202話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人 

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本能寺の変

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