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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 50 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

信長は、嘲笑の的となった。

 斎藤氏にとっては、痛快この上なきこと。

    織上、天下の嘲弄、過ぐべからず候、

    かくの如きの間、
    竜興、 公儀に対し奉り、疎意あらざる段も、
    詮無き成り行きに候事、

信長は、再び、美濃を攻めた。

 同二十九日。
 和睦など、出来ようはずはない。
 突如、越境。
 美濃に、攻め入った。 

  一、去月廿九日、織上、当国境目へ出張候、
    その時分、以っての外、水迫り候て、河表(おもて)打ち渡り、
    河野島へ執り入り候、

    即時に、竜興、懸かり向かひ候、

    これにより、織上引き退き、川縁に居陣候、
    国の者ども、堺川を限り、詰め陣を取り続け、相守り候、
                          (「中島文書」)

これで、和睦は消滅した。

 生きるか、死ぬか。
 共存など、あり得ぬ話だった。

義昭は、失望した。

 最早、信長を信用せず。

細川藤孝は、面目を失った。

 人間不信。
 自信喪失。
 これ以後、暫くの間。
 沈黙がつづく。

          ⇒ 次回へつづく


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