「バンコクの熱い夜」2


 幼稚園から大学まであるバンコクのカレッジに関西出身というO氏がどういう伝手(つて)を頼ったのかコネクトし、そこをネットワークの基地にする計画だった。そのO氏を通して、日本の語学関係の出版社とこちらの日本語学校が協力して、それぞれの利を求めようというプロジェクトだった。出版社としては現地での格安の印刷を、学校としては学生募集の新しい開拓地として。計画の起爆剤として企画し、サマーコースと銘打った短期の日本語講座もそれなりに好評で、計画は順調に行くか、に見えた。

 最初はひどく調子のよいオッさんだな、と思っていたO氏だったが、暑いバンコクでの仕事はアルコールなしではやっていられない。それぞれが単身赴任で来ているような者同士、仕事が終われば当然のようにビールでも、ということになり、現地に詳しいO氏に案内してもらうことになる。従業員がローラースケートでスイスイと注文品を運び廻る巨大なビアホール、氷の中に埋もれた瓶のシンハービールが運ばれてくる街角の飲み屋、そして酒を交わすうちに次第にお互いに少しずつ距離が近くなる。

 が、あれ?と思ったのは、そんな酒の席でO氏がそこにはいない出版社からの社員がこう言っていた、とこちらに話した時だ。端的に言えば、こちらの悪口を言っていた、と彼は言うのだ。「なんでっしゃろうねえ、なんでそんなこと言わんといかんのでっしゃろうねえ」自分はあなたのことを認めているが、あの人はあなたの悪口を言っている、それが理解できないと。長い付き合いであれば、その人に向かってなんでそんなこと言うんですか、と直接詰問するかもしれない。が、つきあいが短ければそんなこともできず、ムムムとしたものが残るしかないのだ。
 でも考えるとその出版社の人がこちらの悪口を言う理由が何もない。お互いに協力してこのプロジェクトを成功させようと頑張っている最中なのだ。それが、O氏に対してあれ?と疑問符をつけた最初だった。

 そして、その後その出版社の人と話してみてわかったのは、O氏がこちらと出版社の人に対して、それぞれがそれぞれの悪口を言っていると両方に伝えていたことだった。苦労を重ねてそれがいい意味で実になる人と、その苦労がその人を変なふうにしてしまうケースがあることは知っていたが、その事実を知って、O氏の場合は後者なのだなと思った。
 要するに、自分だけが仕事しやすい環境を作ろうとしていたのだ。まわりが反目し合えば、頼りとなるところは自分に集まるしかない。要はそういうことなのだと理解するしかなかった。苦労がその人に与える影響ということもあるが、とにかく自分かわいがり、を優先する人というのは案外多いのかもしれない。
 そしてバンコクでのチームは、それをきっかけにギスギスし始めた。ひょっとしたら、O氏が当初描いていた大阪商人風の儲け話が違う方へ進み、その儲けるという思惑が少しずつ崩れていった結果なのかもしれなかった。

 そんな経緯の中での、ある熱い夜。アパートの部屋をノックする音がした。ドアを開けると、二十歳過ぎの現地の女の子が買い物かごのようなものを下げて立っていた。会ったこともない娘だ。ドアチェーンはそのままで、つたない英語で「誰?どんな用?」と聞いた。訪問の理由はわからないままだが、その娘は「。。。。。」と、現地で会った仕事関係の日本人の名前を口にするではないか。やりとりを重ねると、どうもその人とここで落ち合うことになっている、ということらしかった。腑に落ちないままではあったが、もしかしたら仕事上で大事なことなのかもしれない、と想像力が働いてしまい、その娘を部屋へ入れた。 
 「その人と、どんなことでここへ来ることになったの?」しつこく聞いても埒が明かない。彼女はそのうち、落ち着かない様子でキョロキョロし、突然、トイレを貸してと言った。初対面の人の部屋を訪ねるならそのあたりのことは済ませておいて当たり前だ。その瞬間、ピンと第六感が作動した。「出ていけ」とその女の手を掴んでドアを開けた。が、出て行こうとしない。力をこめて、部屋に留まろうとするではないか。もうこれは何か変なことに違いないと確信し、力づくでドアの外へ追いやろうとしたその瞬間、女は持っていた籠から何かを取り出して、それをこちらへ向けた。瞬間、カッと顔が熱くなり、目玉も強烈に痛くなった。痛みに負けず、とにかくこの女をなんとかしなければと、「ばかやろう、何するんだ」と叫びながら力ずくで女を追い出し、ドアを閉め、チェーンをかけた。そしてシャワールームへ駆け込み、この地特有のぬるい水を全開にして顔に浴び、目をこすった。もう何が何だかわからないままに。幸いにして、時間の経過とともに火を浴びたような熱さも収まり、脱力するがままにベッドに倒れ転んだ。
 「何だったんだ、あれは」と呟いてみても何もわからない。日本人を狙い、レイプされかけたとでもいうことにして金をふんだくる手口なのか。それとも、例のO氏の差金(さしがね)なのか。何があるかと不安な日々が続いたが、その後は幸い何もなかった。女が訪問して来た時に告げた日本人の名前はこちらの聞き違いか、何かの勘違いだったと思うしかなかった。
 結局、我々の計画は半年余りで頓挫(とんざ)し、バンコクでの仕事が終わり、帰国してからも結局あれが何だったのかはわからず仕舞いだった。

 最後はそんな風にして終わった二度目のバンコクだった。あれからバンコクに行く機会はないが、過ぎ去ればすべてが懐かしい記憶になるものだ。
 そごうデパートはもうないが、建物はそのまま残っているという。彼女へのプレゼントのブレスレットを求めた店はまだあるだろうか。日本語の本を求めた古本屋はまだあるか。よく見にいったショッピングモール上階の映画館はまだあるだろうか。美味しく食べたカツ丼を出す日本食レストランもまだあるのだろうか。

 たぶん急成長を遂げたタイのことだ。想像以上に猛烈な変化を遂げていて、街も店も一変しているだろうけれど、それでも記憶にあるあれこれを辿(たど)る旅をぜひしてみたい。若い時に行ったバンコクでの体験とは全く異質の旅になるだろうけれども。
 ただ、休日の夜、暇に任せて、ツクツクを走らせて行ったタイ式ボクシングのメッカ、ルンピニースタジアムの人々の喧騒と熱気に包まれた熱いあの空間だけは、たぶん、今も健在だと思う。

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