「死ぬまでにあとどのくらい***だろうか~OZU、オヅ、小津~」2


 小津の作品の一場面。
 田中絹代が食卓で笑っている。左のワインとジュースの中身の高さが揃い、右にある果物を盛った皿の高さも揃い、真ん中に食卓の上に両手を載せている。背景に目をやると左にある襖の縁と右にある柱のちょうど真ん中に田中絹代の体がある。そしてその大きな格子の形は彼女が着ている着物の細かい格子模様にもまた同調しているのだ。
 場面は変わり、今度は娘役の有馬稲子の食卓画面。同じように高さが揃えられた食器の間に手が同じように両手が見える。よく見比べると、田中絹代は左手に指輪をしているが、有馬稲子の手には何もない。
 映画の筋を追うと、この対比が鮮やかに小津の計算上の上だったことがよくわかるということなのだが、鑑賞者は映画を見ている時にはまずそこまで意識することはない。
 以上は友人から小津映画についておもしろいネットのページがあるよ、と教えてもらって訪ねたサイトにあった内容だ。
 食器の高さや、指輪があるないの手と同じように部屋の中の調度品にしても、そのひとつひとつにごく普通の鑑賞者がなるほどと視線を注ぐことはまずないだろう。
 フィルムを回す前にまずセットの写真を撮り、吟味し、登場人物を配置したものも吟味しという作業に時間をかけていたので、俳優はかなりの時間待たされてもいたようだ。
 小津がここまで背景にこだわった理由。それは勿論こちらには正確に理解することはできない。ただ単にそれが彼の趣味だったとだけ括ることには抵抗がある。彼が信じる「美」に則って彼は彼の信じるフィルムを撮ったのだ。
 前にやはり映画好きな友人と韓国へ一緒に行って、向こうで映画館に入った。出てきてから彼が言った。「いやあ、やっぱり映画はいいよね、いろんなことがわかるね。日本にはない生活のディテールが映るからね」
 フィルメールの絵は部屋の中の全てを細かく描いている。後になってから、ああ、そうか、あのバックの額の絵はこういうことだったのか、と気が付くこともある。テーブルの上にはあれが描かれていたのだなと気が付く。
 ただ単に絵のモチーフということだけでなくても、そういう細部が集まって一つの作品に仕上がっている以上、こちらが絵画から受ける印象にとってその細部は大きな意味を持つ。それはひょっとしたら言葉にするのが難しい「何か」かもしれないのだが。
 同じように、それに気づかなくても、小津映画の細部の集まりからの全体がその小津映画の印象に深く関わっているかもしれないという想像はつくだろう。そこまでこだわったものは、たぶんすごいパワーを持っているのだ。
 時代の狭間の中で親と子に纏わる普遍的なテーマを演者の不器用なほどの自然さを駆使する中で扱っていたとか、時代の流れをシビアな視線で捉えていたとか、他に様々な理由が挙げられるだろうが、ハリウッドの監督の間で小津への評価が高いのは、その理由の原点にはこの小津の「こだわり」があったのだろう。
 たぶん向こうには、ここまで細部に拘った映画はあまりなく、だからこそそれが新鮮にも映ったのだろうと想像できる。
 さて、死ぬまでにあとの話題に戻る。動画配信サービスで小津の幾多の初期作品も見たが、もうどうしてこういう初期作品から、あの定番の世界へ行ったのかも不思議だ。縦横無尽(おおげさ)にたちどころに様々な映画の海を渡れるのは幸せなことだ。
 フランス文学者の山田稔は、家を出てから帰るまでを「映画鑑賞」と括っているという。行きに行きつけの書店へ寄り、帰りにはその日観た映画を思い出しながら、カフェでコーヒーかバーのカウンターでアルコールを。
 勿論、わたしも同じように「映画鑑賞」することもあるが、子供の頃に小さなブラウン管テレビで見た名画がいまだに忘れられない記憶があると、「その映画」との出会いは場所も媒体も何も関係ないようにも思うのだ。それこそその映画との「一期一会」なのだと。
 たぶん確率はよいと思うので、「名画」と言われる作品、好きな監督の作品に軸を置きながら、気になる新作も視野に入れてその時の気分に任せてのお気楽な映画鑑賞がいいのかな、と思っている。
 昨日は、ふと今日の気分に合っているかなと感じて「パリタクシー」というフランス映画を見て、とてもよかった。
 いい映画の条件。それは「人の誰かへの、何かへの思い」が琴線に触れる形でこちらに伝わってくること、その映画を見て改めてそう思った。
 もちろんヒッチコックの映画のようにそれ以外の要素の大きい例外はあるけれど。

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