ハイツ友の会不在の賞レースで感じたハイツ友の会の存在意義

2024年4月13日、上方漫才大賞が行われた。
前月末を以って活動休止したハイツ友の会の姿はなかった。

解散してからハイツ友の会が好きだったことに気付いた。

思えば最近は他の新人賞もそれほど興味がなかったが、ハイツ友の会が出場していたから見ていた。
ハイツ友の会が出場するだけで賞レースは異種格闘技になる。失礼な表現をすると、箸休めである。

ハイツ友の会に注目する前の自分を思い出した。
賞レースを見るのに疲れていた。
関西ローカルの賞レースは休日の昼間に放送される。

賞レースの日、私は誰とも会わずパジャマ姿のまま漫才を見る。若手の賞レースなのでみんな声を張る。気を抜いたら漫才の話題は変わっている。
テンションの高い友達に久しぶりに会って疲れる感覚だ。嫌いではない、でも追いつけない。

ハイツ友の会のいない今年の上方漫才大賞は疲れた。
どの漫才も面白かった。
でも、脳が、体が、休みたがっているのだ。
ハイツ友の会の漫才はハイテンションでも早口でもない。いい感じに肩の力を抜いている。

喋り方もそうだが、何より題材と言葉選びがいい。

ハイツ友の会の漫才は陽ではなく陰だ。
陰の定義が難しいが、コマンダンテやDr.ハインリッヒ、最近ではカラタチも陰だろう。

ハイツ友の会は陰で静で他人をいじる。

相方をいじる芸人さんはいるが、陽の人間をいじる芸人さんを私は初めて見た。
敬称は略すが、ピン芸人や漫才師でも、陰で他人ディスりタイプの芸人はいる。ブラックマヨネーズ吉田、サーモン久保田、中山功太、ヒューマン中村などだ。
彼らはいじるのではない、ディスっているのだ。

いじりとディスりの違いは、相手と自分を比較しているかどうかだ。
ハイツ友の会は「よそはよそ、うちはうち」である。彼女たちのプライベートは知らないが、漫才の中では決して自虐をしなかったし、自分たちの方が優れているアピールをしなかった。

私は学位時代、陰キャラだった。
ダンス部をいじることができる人なんて存在しないと思っていた。いじるべき対象から外れていると思っていた。

でもハイツ友の会が、ダンス部を、喫煙者を、リア充をいじってくれた。
陰キャラの光だ。
陰キャラの光は賞レースのシステムなどによって、消えてしまった。
それは私のお笑いへの光も変えてしまったも同じである。陰キャラは「逆襲」や「陽キャラからのいじり」「陽キャラへのディスり」によってしか活躍できない。
「キモさ」や「可愛さ」で売らなかったハイツ友の会は陰キャラの誇りである。

陰キャラの光は賞レースでは評価されづらい。
賞レースでは、陽キャラの光、言い換えればハイツ友の会のいじり対象のような漫才師が勝ちやすい。
視聴者に伝わりやすく、ウケるからだ。

若手漫才はここ数年でレベルが上がり、賞レースで伏線を回収して当たり前、大爆発があって当たり前、登場してすぐに客をつかむのが当たり前の世界である。
視聴者に見やすく、整えられた漫才が求められるのも分かる。

一方でミルクボーイや令和ロマンなどM-1に優勝してもむやみやたらに全国ネットに出演しないという選択肢をとる漫才師もいる。

芸人が自分たちの方向性を決めて活動する時代なのだ。

漫才なんてテレビ以外でもネットで無料で山ほど見られる時代だ。そんな時代に若手芸人の賞レースをする意義は万人ウケする漫才師を排出するのではなく、各自の路線を貫こうとする漫才師の面白さや魅力、見えにくい技術を褒め称えること、視聴者にその漫才師の漫才の視点を伝えることではないだろうか。タイパが叫ばれ、倍速視聴や切り取り動画が一般化されつつある中で、それらの逆を行く漫才師の出現はお笑い界に新たな風を吹き起こしてくれるのではないか。

多くの芸人がテレビなどのメディアのパイを奪い合う中、見本のような漫才を評価しても将来性は薄い。
独自の路線の漫才師をもっと評価してはどうか。

今まで賞レース向きではないと言われてきた芸人さんたちが賞レースで光り輝く時代が来ることを祈る。


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