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標本

 美しさが罪なのは、それを愛でる相手に対してではない。罪というのは、たとえそれが自らの行動に起因するものでなかったとしても、最後には自分に還って来るのだ。


***


「モルフォ蝶が青いのは何故だと思う?」

 彼が言った。僕は「知らない」と答えたが、本当は「興味がない」だけだ。
僕の意識はいつだって、彼の思考の方には向かない。学者様に対して失礼かもしれないが。

「実はね、その理由は解明されていないんだ。君なら答えてくれると思ったんだが。」

 無茶を言う。この人は僕のことをなんだと思っているのだろう。
「僕はそこらの有象無象だよ。その他大勢ってやつだ。たまたまあんたに見付けられただけで、」
 あんたとは違う。
これは口には出さなかった。嫉妬などとは思われたくない。
(いや、嫉妬なんかよりも知られたくない感情だ。)

 彼を美しいと崇めているだなんて。

 初めて出会った瞬間、その美貌に射抜かれ、両の腕に絡め取られたいと思っていた。
白く細く、繊細に動く指先で僕を愛でてほしい。太陽光を透かして金色に輝く前髪の隙間から、水面のように揺らめく瞳の中枢に、僕だけを映してほしい。
 劣情にも似たこの心の内を、絶対に彼には知られたくない。だが、日に日に募る感情を抑えられなくもなっていた。
(彼がほしい。いや、彼のものになりたい。)
 その美しさが手に入らないなら、僕の方が彼のものになればいいのではないか。
(だけど、そんなの無理だ。)
昆虫学者の彼の目が輝くのは、貴重な生体や標本に出会った時だけ。そこらに転がってる石ころのようにありふれた僕に、彼に選ばれる価値はない。
 と、ひとつ疑問が湧く。
「あんた何故僕をここに連れてきたんだ?」
 ここは彼の研究室だ。そこそこ優秀な学者らしく個室を与えられており、その内部は彼の脳内そのもの。昆虫に関する書籍の数々、よくわからない薬品、その薬品に浸けられた虫たち。それから、綺麗に張り付けられた乾燥標本。
 その中心で何やら作業をしている彼に、僕の言葉は届かなかったらしい。手元を見ると、ピンのようなものを蝶の腹に挿しているところだった。
「いっそその針で僕を貫いて、僕のことも張り付けにしたらどうだ?」
 どうせ耳には入らないだろうと悪態をつくと、今度は聞こえていたのか、振り向いて笑う。

「安心しろ。君のことは殺さない。研究のために連れてきたのではないからな。」

 それはそうだ。素人の僕に手伝えることなどない。
先ほどの質問の答えだって、僕は持っていないのだ。モルフォ蝶は何故青いのか。
あの青はたしか構造色といったか。色素が青いのではなく、青い光だけを反射する。その仕組みだってよくわかっていないのに。
 けれど、僕なりの想像でいいなら、ひとつだけ浮かぶ『理由』がある。雌を惹き付けるのでも、捕食者から身を守るのでもない理由が。
「あんたに見付けてもらうため。」
 そのためならいくらでも青く美しく輝くだろう。研究しか入る余地のないその脳みそに、この存在が強く刻まれるなら。
(たとえ最期が串刺しだとしても。)
それは卑しく彼を求めてしまった罪に対する罰だから。

「何か言ったか?」

 自らの思考の熱にうなだれていると、いつの間にか彼が近くに立って僕を見下ろしていた。長い睫毛のブラインドの奥、そのエメラルドの水面に僕だけを映して。
 手を伸ばして触れようとしたが、その途端踵を返して歩き出してしまう。

「そろそろ行くか。」

そう呟くと、外套と鞄を手に取りさっさと入り口に移動していく。研究にかける時間は長いが、帰り支度はいつも早い。
僕が立ち上がるのも確認せず、部屋の明かりを消してしまった。
(やれやれ…。)
 身勝手を許してしまうのも僕の罪だ。
そう思いながらゆるりと体を起こすと、窓の外はすっかり夜の景色だ。彼がいなくなった研究室は、これからしばしの眠りにつく。







 そんな中、ひとつだけ静かに息をしているものがいる。学者らしい探求心を注がれぬまま、ただそこにいる。
蝶が青い理由を問うたくせに、彼はそれを生かしておく理由を言わない。

 窓から射す月明かりに、その青い翅だけが美しく光っていた。

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