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邪馬台国と卑弥呼…魏志倭人伝は実に正確だった  8.邪馬台国は人口15万の『耶蘇教国』だった!

 三国史記『東夷伝倭人の条』(魏志倭人伝)には、『邪馬台国』には、【七萬余戸】がある旨が記載されています。
 『魏志倭人伝』については多くの研究者や歴史家が現在もまだ論争を続けていますが、ほとんどの議論は「作者・陳寿の記載に誤りがある」ことを論拠にして自論の展開が行われています。
 これもよく考えてみると、
 ★自説に都合の良い部分は《正しい記載》
 ★自説に合わないところは《誤った記載》
としているだけです。
 まずは、作者・陳寿の記述が正しいことを前提とするのが大原則であるべきです。特に、漢文で記載されたものについて、漢字が母国語である陳寿に向かって誤りがあるという前提を置くことこそ、大変に失礼な話です。
 既に筆者は1.~7.で何ら【陳寿の誤記】など持ち出さなくとも『邪馬台国は九州にある』、『卑弥呼の都する処は淡路島』であることをいくつもの証拠立てで実証しています。
 ですから、それでも【陳寿に誤記あり】とするなら、そもそも『魏志倭人伝』を研究や検討の対象にしていること自体がおかしいわけです。
 それでもと言うなら、
 ★【誤りとする部分】が『誤り』であることを実証しなければ単なるご都
  合主義で、学問的態度とは言えません
 以上はさておき、筆者は
 ★『魏志倭人伝』には、誤記や誤りという事実は見出していません
ので、【陳寿の記載】に従って史実の解明を進めて行きます。
 さて、『魏志倭人伝』に戻ると、『邪馬台国』の規模を表す記載があり、
 ★戸数が七萬余戸
と記述されています。
 正確に、一戸当たり何人と考えればいいのかは不明ですが、例えば
 ★二人/戸としますと、人口15万人規模の国となります。
これが、どれほどの規模化を見るために他の国と比較してみましょう。
下表は、『倭人伝』中の他の国と比較する表です。

倭人伝の国別戸数

馬韓でも十余万戸となっています。下図は上記の国が存在した頃の地図になっていますが、『馬韓』や、『辰韓・弁韓』などは、まさに国と言う規模の広さと理解できます。

倭人伝中の国々

確かに、『辰韓・弁韓』などは総戸数が四十五万戸となり、百万人近くの人口だったことが推定されます。『弁韓・辰韓』は特殊事情がありました(これは次稿以降順次説明します)。
 あまりいい例ではありませんが、同じ【人口密度】だと乱暴に仮定しますと、『邪馬台国は馬韓の半分の国土』だったのでしょうか?
 もちろん、邪馬台国もいくつかから成り立っていた連合国のようなものかもしれません。
 しかし、『九州説』や『大和説』を論争する前にこのような理解はされているのでしょうか?
 でなければ、単に『論争のための論争』を繰り返してきただけで何も明らかにすることは出来ないのも当然です。
 若干、前置きが長くなりましたが、次稿でもう少し詳しく説明を致しますが、タイトルの『耶蘇教国』について少しだけ述べておきます。『耶蘇教』とは、キリスト教です。また漢字としては【耶=邪】であり、耶は邪の俗字です。
 筆者は、『邪馬台国は九州』という結論をすでに7.までで示して、実証していますが、
 ★九州に『隠れキリシタン』もしくは『潜伏キリシタン』が多い
のをご存じだと思います。
 これを、1549年に『ザビエル』が来日して布教したから…と言う主張があるかもしれませんが、九州には『キリシタン大名』が多くいます。
 また、1682年『天正遣欧使節』が、キリシタン大名大友宗麟、有馬隆信、大村純忠らのよってローマに少年使節を派遣しました。
 高々30年でスペイン語で布教して農民、そして大名までクリスチャンになり、大名が連合で使節を送り出すなど信じることはできません。
 その九州には過去からの素地が以前からあったからではないでしょうか?
突然、牧師が来て特定のコースを布教して大成功はあり得ません。
 下にザビエルの布教活動とキリシタンについて示しておきます。

布教活動とキリシタン

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