何もできない痛み、力になりたい痛み

灰色の薄い雲が、今にも雨粒を降り落としそうにだらだらと居座っている。視線をさらに遠くに移すと青空が。白い雲とともに浮かんでいる。とても宙ぶらりんな頼りないその青空は、今にも消えそうに、ただ"青空"でいるばかりだ。

インタビュー原稿の続きを書こうとPCを開いた。書いては消し、書いては消し、何日目だろうか。結局筆は進んでいない。何にこだわっているのか、何に納得できないのか。書けなかった。一旦PCを閉じ引っ張り出したのは真っ白なルーズリーフ。

***

「書きたい」は「届けたい」だった。インタビューをさせていただいた方の想いが、言葉が、生きづらさを抱える誰かの救いになれば。その橋渡しになりたいと、選んだ道がライターだった。

ライターになってから1年数ヶ月が経つ。わずかながらに手にした「書く」「聴く」という武器を使い、この未曾有の事態の中、少しでも役に立ちたい気持ちが募る。でも、いざ「誰か」のために筆を下ろそうとすると、なぜだか怖くなり胸が詰まった。

毎日、毎日、毎日、誰かが引き裂かれるように傷ついている。

名前も顔も知らない、誰か。テレビの向こうの誰か。地球の裏側の誰か。もしかしたら海外を旅していたときにすれ違ったかもしれない誰か。カタコトの英語で道を尋ねたときに親切に教えてくれた誰か。かも、しれない。

わかっている。そんなことにいちいち想いを馳せ、悲しみ、立ち止まっていたら自分が壊れてしまうことくらい。自分には自分の生活があって、目の前には仕事があって。ご飯を食べ、散歩をし、好きな音楽を聴く時間も必要で。なんなら読書をしたり勉強をしたり有意義に時間を使いながら健康にも気を遣って快適に過ごした方が良いってことくらい。笑っていた方が楽しいってことくらい。わかっている。

わかってはいても、悲しかった。人が傷つき悲しむ姿が、ただただ悲しい。

少しでも楽しく有意義に過ごしたい、でも気持ちが追いつかなくなり現実を見たくないといつまでも布団にくるまってしまう自分。よし、やるぞ!とやる気を出し、ヨガやランニングや仕事を頑張れる自分。友達と楽しくzoomをして爆笑する自分。書くことで人の役に立ちたい、でもそれがどういうことかきちんとわかっていなくて怖くなる自分。すべて、真っ只中にいる「自分」だった。

***

わたしは、戦争経験者ではない。3.11の被災者でもない。これらの状況と今を比べることはできないし全く違う類のものとはいえ、自分ではどうしようもない「人の生死に影響を与える生活の変化」の当事者になることは生まれて初めてなんだと歴史を振り返り思う。

3.11が起きたときは、中学校の卒業式の前日だった(と記憶している)。最後のホームルーム。担任の先生から贈られる言葉を遮り、「机の下に隠れろ!」と怒号が響いた。反射的に机の下に潜り込み鉄臭い脚をぎゅっと掴んだ当時を鮮明に覚えている。

中学生ながらに被災地にボランティアに行く人がたくさんいることも知っていたし、たくさんの方が亡くなり大変な世の中になったことは頭ではわかっていた。けれど、悲しみに想いを馳せるよりも前に、卒業記念に友達と行くはずだったディズニーランドへ行けなった悔しさで歯を食いしばる自分をなだめるのに精一杯だった。

あれから10年が経ち、24歳になった。ディズニーランドにまたいつ行けるかわからない状況にも多少我慢ができるようになったようで。経験も知識もないけれど「自分にできることで誰かの力になりたい」と手足をバタつかせている。

でも、人の力になりたいと思うことで感じる"痛み"をなかなか咀嚼できないでいた。誰かのためを思えば、他の誰かを傷つけることになるかもしれない。言葉を選ぶのに時間がかかり、結局答えが見えず、それでも筆を下ろそうとするから「怖い」と感じる。

無力感や憤り、やるせなさ。世の中に流れる決して明るいとは言えない雰囲気、それでも明るくいようとすることへの疲れ、テレビやSNSを通じて目の当たりにする涙。そのすべてが混ざり合い、溶け合い硬く硬く固まったものが「痛み」の正体なのかもしれない。

もしかしたら医療従事者の方々は、横たわる患者さんを前にいろいろな痛みを胸に染み込ませながら「助けたい」と治療に当たってくださっているのだろうか。想像することしかできないけれど。

***

涙を流さないと書けない、と思った。

傷ついている。見えない傷を日々少しずつ、少しずつ負っている自分を見て見ぬ振りして人の力になる、そんなことは到底できなかった。今世界中で起きている悲しみに、ありのまま、傷つきたい。痛みはきっと、言葉になる。いや、絶対に血肉にして言葉に宿すんだ。今感じている痛みに目を逸らしたら身体の中には何も残らないような気がした。自分が感じる感情を、避けたくない。逃げたくない。

そう身体が悲鳴を上げ、やっと涙がぽつぽつ零れ落ちた。呼吸を通じて心と身体が満たされる時間をつくると「今、ここ」にある自分の尊さにまた、涙が出た。

今を、生きている。わたしにとって、これ以上の希望は何もない。わたしは「今」を、この「今」起きている出来事の、「今」を生きている。

見て聞いて触れて、感じたことを頭で考えることができる。それが希望でなくて、何なのだろう。痛くてもいいから、苦しくてもいいから、ちゃんと、受け止めたい。わたしは自分で、選びたい。

受け止めた事実と解釈と感情を、自分の中にあるエネルギーや感性や思考の癖、意志に潜らせ世界に還していきたい。

そしてそれは、言葉を紡いで生きていきたいと、恥ずかしいくらいに強く思った瞬間でもあった。

***

あ、降ってきた。窓を打つ、パタパタと小雨の音。何もできない痛み。それでも力になりたいと手を伸ばし、何かを掴もうとする痛み。感情が流れるように地面へと還っていく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?