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仕事=しんどい/我慢/嫌でもやらねば/拘束

そう無意識にでも設定して、仕方なしに仕事をしているとします(以前の私)。そして「好きなことを仕事にできたら幸せだろうな〜」って夢を描いたりする。

そのままじゃ、その夢叶わないほうが幸せ

これは最近やっと理解できたことなのですが
叶ったら、好きなことが「仕事=しんどくて、我慢を強いられて、嫌でも逃げられず、時間的にも肉体的に拘束されるもの」になってしまう。せっかくの好きなことが、とても嫌なものになってしまうから。

まずは「仕事とは?」を変えてみた

"お給料は我慢料"的な迷言をネタでも口に出さない。

やめられる我慢はすべてやめる。

無理したらできないわけじゃないけどしんどい事を、黙って引き受けたりしない(たいてい感謝もされず、「やったったのに!」とイライラして終わる)。

体はぜったいな犠牲にしない(みんな、体があるから仕事ができているってこと忘れてない?)。

その「犠牲」の基準は、自分で決める(私はぜったいに爪を道具にはしない。その方が早いよとか言われても、ぜったい爪でガムテープの端っこをカリカリして剥がしたりなどしない)。

そして「仕事とは、ただの労働」になった

めちゃくちゃ仕事が楽しくなりました♡とか労働時間が減ったのに給料が上がりました♡とか華々しい変化じゃないの?と思うかもしれませんが。
これで、いいんです。むしろ、これが、いいんです。

だから目の前の仕事に淡々と愛を注げる

愛を注ぐといっても、「ああ…もう大好き♡これさえしてれば幸せ♡」という感情を仕事に抱きましょうと説いているのでも、店員さんにレジに並ぶ客全員に最大級の愛嬌をふりまくことをすすめているのでも、ない。

ただ目の前のモノやコトが最善になるように、自分の肉体を動かす。それが愛を注ぐということ。

これは、「仕事」の設定が「単なる労働」になったからできることです。「仕事=嫌なこと(でも逃げられない)」のままだったら?最善なんて願ってられないもの。

っていうか…嫌なこと人に押し付けるの?

我慢をやめる。に対して、そんな意見も出てきそう。

だけど!私が嫌なことを、他の人も同じように同じレベルで嫌だとは限らない。逆も然り。
たとえば私はお昼休みはひとりで過ごしたいので、仮に「あの人いつもひとりで寂しいはず!仲間に入れてあげなきゃ!」って誘われたら、たとえどんなに純粋な善意でも迷惑だし気遣いなら不要です。
人間ってそんなもんでは?

だから安心して我慢をやめていい。
ただ、「私コレやりたくないからあなたがやってよね」とか「…(見て見ぬふり)」とか、それは違うと思う。

どうやったら、自分周りも最小の我慢で、最大のパフォーマンスを発揮できるか、試行錯誤して工夫するために脳みそがあるんだと思う。我慢大会なんてしてる場合じゃないと思う。


子供の頃って「我慢しなさい」って言われて育つけど、本当は「工夫しなさい」だよな。みんな「我慢しなさい」って言われて育つから、仕事がしんどくて苦しいし、楽しているように見える人が恨めしいんだろうな。どうでしょう。

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