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時代とアイスクリーム 実家の片づけ⑥

 80代の父は「断捨離」という言葉が好きではありません。

 今は何でも断捨離、断捨離と言う。言えば聞こえがいいから、なんでも許されるような風潮がある。なんでもかんでも切り捨ててそれでおしまい。もったいないという気持ちや、物を大切に使う気持ち、工夫して使い続けることだって大事なことなのに、今は何でも捨てろ、捨てろ、だ。

 それが気に入らない、といいます。

 まったくもって、もっともな話です。
 父の言い分は、今盛んに言われるSDG’sにも適っています。

 いっぽう母は、70代。使わないものは処分したいという部分と、花や、自分の作った手芸や工芸の数々や雑貨品などを飾っておきたい、という部分が混在しています。

 母は、もう不要となった品物は潔く処分して、気持ちよく暮らしたい、と言います。

 「もう不要」と判断する品物が、時には自分のものだけではないことがあり、それが父と母が口論になる原因です。

 やましたひでこさんが提唱した「断捨離」は、一世を風靡し、猫も杓子も「断捨離」というようになりました。

 本来は、物に執着する心を手放せば、心が軽くなる、という提案です。
 しかしいつしか言葉が独り歩きして、モノを捨てること=「断捨離」と呼ばれるようになりました。

 その後、こんまりさんが登場し「ときめくものは残す」という提案がなされました。
 こちらも大旋風を巻き起こしましたが、この「ときめき」感受性には個人差があって、素人には、「ときめき」の基準がなかなか、定まりません。

 急速にモノがあふれた時代を生きている我々は、時に、モノとの距離感、モノとの付き合い方がわからなくなり、悩みます。
 モノが無かった時代には悩みようのない悩みを、悩んでいます。 

 価値観について考える時、私は、「アイスクリームのうた」という童謡を思い出します。

 おとぎばなしの王子でも
 昔はとても食べられない
 アイスクリーム アイスクリーム

 ぼくは 王子ではないけれど
 アイスクリームを召し上がる
 …

「アイスクリームのうた」作詞:佐藤義美、作曲:服部公一


 冷蔵庫の無かった昔の人にとって、アイスクリームは「存在しない」か、「希少品」で、王侯貴族だって食べられませんでした。
 贅沢な嗜好品を食べることができる自分はもちろんただの一般庶民だけれど、当時の人からすればまるで王子のようなものだ、という、ファンタジックではあるけれどリアルな気づきがあります。

 アイスクリームを惜しげもなく食べられる「現代っ子の幸福」。

 そのうえ、

 アイスクリームは楽しいね

同上

 アイスクリームを食べることは、飢えを満たすためのものでも、栄養を取るためだけでもなく、もはやエンターテインメントなのです。

 これは当時、その上の世代からすれば驚くべきことだったかもしれません。

 1960年に、『ABCこどもの歌』のために書き下ろされたこの曲。1962年には『みんなのうた』で放送されています。

 この歌は、「ある」ことが「幸せ」という価値観に基づいています。

 「ない」時代には知らない価値を「ある」時代には知っている。
 「ない」時代には希少性の高いものが「ある」時代にはありふれている。

 こんなに美味しいものを、まさか、昔の人が「そんなものはいらない」と言うはずがない、絶対に羨ましいと思うはずだ、という前提に立っての相対的な「幸福」。

 でもそんなものは、比べようがないのです。

 冷蔵庫が無かった時代の人は「ない」なりに生きていたし「アイスクリームが無くて可哀そう」なんて未来人に上から目線で言われる筋合いはないはずなのです。

 戦中・戦後生まれの我が家の父母は、日本全体がモノの無い時代に生まれ育っているので、モノとのつきあいかたが、私たち子供世代とは違います。

 私たちの次の世代も、私たちとは考え方や価値観が違っています。

 同じ時代の重なりはあっても、それを生きる年齢が違うということは、前後の世代の何もかもは理解できないということだと思います。

 つい、違う世代の価値観を否定しがちですが、でもそれらは、その時代を生きるのに最適化された価値観でもあるのです。

 今回、実家の片づけを「一緒にしよう」と、両親に改まって提案したわけではありません。

 「まだ先でいい」と思っていたわけではないのですが、かといって「差し迫る喫緊の問題」とも感じていなかったことを、セイラが置かれた状況を通じて家族それぞれが学んだ結果、「今だね」というコンセンサスを得た、というのが正確なところでしょうか。

 核家族で、娘がふたり。
 それぞれが別の家に嫁ぎ、姓は継承していない、我が家。

 母は、私たちが幼い頃、娘だけで息子がいないことを、親戚や周囲から揶揄されたと言います。全く大きなお世話ですが、「時代」とばかりは言えません。そういう価値観を持つ人や地域は、今も存在すると思います。

 男と女が結婚して息子(跡継ぎ)がいれば、家は安泰。
 老後も保障される。
 それが「幸せ」というもの。

 親の世代では、それが「常識」とされ、嫁姑の問題に苦しみながらも「家」を守ろうとしてきました。

 かつて富裕な家にしかモノが無く、数多くの兄弟の中から跡継ぎが家を継いだ時代は、親のものは宝であり、モノそのものが、引き継ぎたいと願う価値のあるものだったはずです。
 今だって、希少な財産のある家の相続争いは凄まじいものがあるでしょう。

 しかし現代、モノは富裕な家ばかりにあるわけではありません。庶民の家が、みな、それ以前の時代に比べ、相対的に豊かです。プラスティックでできた大量生産品に溢れ、その家の主がいなくなれば、受け継ぐ人の無い、行先のないモノとして残されます。

 家の中がパンパンになるまでたくさんのモノに囲まれることが「是」だった時代は終わりをつげ、家のものを子供が受け継ぐことが、必ずしも「是」ではない時代になってきています。

 本当に必要なものは何か。

 その答えは、世代によっても違いますし、ひとりひとり違います。

 今、私たちは、「一緒に楽しみながら片づけをしよう」としていますが、親にとって、実はそれは、それほど楽しい作業ではないかも知れません。

 今まで自分が大切にしてきたものに「不要」とレッテルを貼られるのは辛いものです。

 物が溢れた時代に育った私たちには「物のかわりはいくらもある」と思うことができます。でも、親世代にとっては「かけがえのない」ものかもしれません。

 今は捨てたくない、と思うものを、親に無理に捨てさせるつもりは、私にも妹にもありません。
 でも、やはり「捨てた方がいいもの」も存在します。そのあたりの兼ね合いは、試行錯誤です。

 思い出は尊重しながら、多すぎるモノを減らし、少し風通しを良くして、今あるものを大切にして楽しめるように。

 あの時片づけて良かったなと思えるように。

 家族全員で一緒に思い出を語りながら、モノに「ありがとう、さようなら」と言えるのは、ありがたいことだと思います。
 全員が今のところ健在であるからこそできることで、親子やきょうだいが憎み合っていたら、できないことでもあります。

 そんな時代もあったねと
 いつか話せる日がくるわ
 あんな時代もあったねと
 きっと笑って話せるわ
 だから今日はくよくよしないで
 今日の風に吹かれましょう

「時代」中島みゆき

 考えようによっては、こう言う片付け方は、捨てたモノへのひとつの供養にもなるかも知れません。

 そう、願うばかりです。

♬BGM「アイスクリームのうた」/みんなのうた&「時代」中島みゆき









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