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「夜明けと蛍」弾き語り版のエモさをコード進行から分析した

1. ボーカロイド版と弾き語り版の違い

 まずこの2曲を聴き比べてみてほしい。



 「夜明けと蛍」は現在破竹の勢いのバンド・ヨルシカのコンポーザーであるn-bunaが、ヨルシカ結成以前の2014年にニコニコ動画に投稿した楽曲である。
 「ジャッ ジャッ ジャッ ジャッ」という印象的なイントロのフレーズから始まるこの曲は、その感傷的な歌詞とも相俟って叙情性たっぷりの「エモい」作品だといえよう。

 上に挙げたのは、オリジナルのボーカロイド(初音ミク)版とn-buna本人が歌唱した弾き語り版である。よく聴くと、ところどころで使われているコードが両者で違っているのが分かる。
 特に、サビの8小節目「浅い 浅い夏の向こうに~」という箇所と、大サビで転調する前の「夏が来ないままの~」という箇所をよく聴き比べていただきたい。弾き語り版のこの箇所なのだが…

 なんか…エモくないだろうか。

 ボーカロイド版だとほとんどずっと同じコード進行が使われているのだが、弾き語り版はサビの一部分と大サビの前でコード進行が少し変わっている。特に大サビ前は雰囲気がガラリと変わり、サビの重々しいコード進行が、浮遊感のある突き抜けたような進行に変わって、クライマックスへの期待感が高められているように感じる。

 この「エモさ」の根源は何なのか、本稿ではこれについてコード進行に焦点を当てて解析していく。とはいえ筆者はズブの素人なので、間違いがあっても大目に見てほしい(指摘していただければなおありがたいです)。
 なお自学のためにも細かい説明を付しながら書いていくので、知っていたり読むのが七面倒な方は飛ばしていただいて構わない。

2.コード解析と両バージョンの比較

 先に述べたように、ボーカロイド版と弾き語り版のコード進行の大きな相違点はサビの8小節目と大サビ前にある(他にもところどころマイナーチェンジはあるが、割愛する)。
 結論から言ってしまえば、これらの違い、すなわち弾き語り版の「エモさ」の根源は、

 1.パッシングディミニッシュ
 2.逆循環進行


にある。以下に詳しく見ていこう。なお、コード進行の生み出す効果に関しては、次のサイトを参考にした。

 ・ボーカロイド版のコード進行解析

 ボーカロイド版「夜明けと蛍」のコード進行は、概ね以下のようなものである。「Cメロ」はギターソロ後の「水に映る~」の箇所を指す。

key=Gmajor
イントロ:Ⅵm → Ⅲm → Ⅳ → Ⅴ → Ⅰ → Ⅲm
 
Aメロ:          %

サビ:          %

Cメロ: Ⅵm  → Ⅳ → Ⅴ → Ⅰ
 ↓
半音上(key=G#major)へ転調
 ↓
大サビ: Ⅵm → Ⅲm → Ⅳ → Ⅴ → Ⅰ → Ⅲm
    
アウトロ(?):Ⅵm → Ⅲm → Ⅳ → Ⅴ → Ⅰ

 基本的には「T→SD→D」の進行である。この進行は、大雑把に言うと、どっしりとしたコードから始まって、中間的なコードを経由し、不安定なコードへと向かい、そこからさらにまたどっしりとしたコードへ向かうという展開を演出する。手短に言えば、「安定→不安定→安定」という展開によって緊張感とその解決とを演出する進行である。

 ⅠとかⅢmとかいうのは、あるスケール(ドレミファソラシド)の中でそのコードが何番目にあたるかを示したものである。今回はGメジャースケールなので、構成和音はG、Am、Bm、C、D、Em、F#m♭5になる。よって、例えばサビの進行である「634513」は、ギターのスタンダードチューニングだとEm → Bm → C → D → G →Emになる。

 先述したT、SD、Dというのは、Tは「トニック」、SDは「サブドミナント」、Dは「ドミナント」の略記である。トニックはある調の主音で、ドミナントはトニックに戻りたがる不安定な性質のある音、サブドミナントはその中間のイメージである。また、それぞれの役割をもつコードと共通の構成音を持つコードを「代理和音」といい、トニックの代理和音はトニックの、ドミナントの代理和音はドミナントの、サブドミナントの代理和音はサブドミナントの代理というかたちで用いることが出来る。
 メジャースケールでは、トニックとその代理和音はⅠ・Ⅲm・Ⅵm、サブドミナントとその代理和音はⅣ・Ⅱm、ドミナントとその代理和音はⅤ・Ⅶm♭5となる。

 したがって、イントロからサビにかけての特徴的なコード進行は、「T代理→T代理→SD→D→T→T代理」となっている。ずっしりとしたトニックから始まり、サブドミナントからドミナントへと緊張感を増していった後で、安定感のあるトニックへ戻り、トニック代理で終止する、という展開である。

 「水に映る~」から始まるCメロは「小室進行」と呼ばれる進行である。小室哲哉が多用したことからこの名がつけられた。コードの機能は「T代理→SD→D→T」となっている。どことなくアンニュイな印象を与えるコード進行である。

 ・弾き語り版のコード進行解析 

 次に、弾き語り版のコード進行を見ていこう。ここからは楽曲の各部分に分けて分析する。

 まず、イントロからAメロまでの進行は、キーこそ違えど(弾き語り版はB♭major)概ねボーカロイド版と同じである。

 次に、サビの進行であるが、

「形の  ない歌で  朝   を  描いた まま」
 Ⅵm → Ⅲm7 → Ⅳ → Ⅴ → Ⅰ → Ⅲm

「浅い   浅い   夏     の   向こう   に」
 Ⅵm → Ⅲm7 → Ⅳ → Ⅳ#dim7 → Ⅴ → Ⅴ#dim7

「冷たく ない君の  手の  ひら  が  見えた」
 Ⅵm → Ⅲm7 → Ⅳ → Ⅴ → Ⅰ → Ⅲm

「淡い   空 明  け  の  蛍」
 Ⅵm → Ⅲm7 → Ⅳ → Ⅴ → Ⅰ

 サビのこの箇所では、「パッシングディミニッシュ」という技法が使われている。これによって、物悲しく切なげな雰囲気が醸し出され、それが「エモさ」に繋がっていると思われる。

 問題の部分では、「Ⅳ→Ⅴ→Ⅰ→Ⅲm」という進行の代わりに、「Ⅳ→Ⅳ#dim7→Ⅴ→Ⅴ#dim7」という進行が使われている。「dim7」とは「ディミニッシュセブンス」のことで、ルート(根音)から数えて3半音ずつ、4つ音をとっていくとできる。このコードはマイナーコードの一種で、暗いながらもどこか郷愁的な雰囲気の漂うコードである。

 さて、ここで用いられているのが、「パッシングディミニッシュ」という技法である。これは、連続するコードの間隔が全音(半音2つ分。たとえば、CとD)である場合、その間にルートが前のコードの半音上になるディミニッシュコードを挟み込むというもので、コードからコードへの動きを滑らかにする役割を果たす。 

 続いて、Cメロの進行もだいたい同じである。「T代理→SD→D→T」という進行で、安定したトニックからサブドミナントを経て不安定なドミナントへ、そして安定したトニックに回帰する、という小室進行だ。

 そして、弾き語り版で大きく変わった部分がこちら。

「夏が来ない ままの 空を描い たなら」
   Ⅳ → Ⅴ → Ⅲm7 → Ⅵm7

「君は   僕を   笑うだ  ろうか」
   Ⅳ → Ⅴ → Ⅴ#dim7 → Ⅲ7

「明け方の 夢 浮 かぶ月  が見え   た 空」
   Ⅳ → Ⅴ → Ⅵm7 → Ⅲm7 → ⅣM7 → Ⅴ

 メロディがサビと同じであるにもかかわらず、1番・2番のサビや大サビの「Ⅵm→Ⅲm→Ⅳ→Ⅴ→Ⅰ→Ⅲm」という重々しいコード進行とは違い、こちらの進行は、どこか浮遊感のある進行になっている。その理屈が「逆循環進行」である。

 進行を分析してみよう。まず「Ⅳ→Ⅴ→Ⅲm7→Ⅵm」の部分は、サビの「Ⅵm→Ⅲm→Ⅳ→Ⅴ」という進行を真ん中で分けて、ひっくり返した形になっている。このような進行を「逆循環進行」といい、トニックから始める進行とは異なる雰囲気を醸し出すことが出来る。

 それぞれのコードの役割を見てみると、「SD→D→T代理→T代理」となっている。安定したトニックにも不安定なドミナントにも向かえる中間的なサブドミナントから始まって、緊張感を与えるドミナントへ向かい、安定したトニックに戻る、という進行だ。このアタマにあるサブドミナントが、浮遊感のある儚げな雰囲気を作っている。

 加えて、このコード進行は「王道進行」と呼ばれるもので、多くの曲のサビで使われている。調の主音であるⅠを経由しないことで、宙吊り感や寂寥感を演出する進行である。

 次に、「Ⅳ→Ⅴ→Ⅴ#dim7→Ⅲ7」の部分。ここは正直自信がない。というかよくわからん。この展開でⅤ#dim行ったら普通そのままⅥm行くだろ!と思ったけど、まさかのⅢ7である。こういうのってよくあるんですか?教えてエロい人。

 ともあれ、この進行からは、進みそうで進まない、そんな雰囲気が感じられる。なんとなく不完全燃焼な感じのする進行である。

 兎にも角にも、分析してみよう。先程と同じようにサブドミナントから始まるが、ドミナントからトニックへは行かず、ルートが半音上のディミニッシュを経由してノンダイアトニックコードに向かっている。

 ノンダイアトニックコードというのは、あるダイアトニックスケール(ドレミファソラシド)の中で、それに含まれないコードを指す。弾き語り版はボーカロイド版とは少しキーが変わってB♭majorになっており、このメジャースケールを構成するコードは、B♭、Cm、Dm、D#、F、Gm、Am♭5である。したがって、ⅢのメジャーコードであるⅢ7、すなわちD7はこのスケールには含まれないはずなのだが、前のコードとの兼ね合いで登場してきている。これをノンダイアトニックコードという。ちなみにⅣ#dim7やⅤ#dim7もノンダイアトニックコードに含まれる。

 問題のコード進行を(ローマ数字ではなく)実際の音階で表すと、「D#→F→F#dim7→D7」となる。このうち後者二つの構成音を調べてみると、F#dim7の構成音は「ファ#・ラ・ド・レ#」。他方D7の構成音は「レ・ファ#・ラ・ド」。二つのコードを構成する音のうち、3つが共通していることになる。動いているのはレ#→レだけで、これによって進行感の薄い展開を作り出している…のか?

 ともあれ、この箇所のコード進行が「進みそうで進まない」というものなのは確かだろう。

 最後に、「Ⅳ→Ⅴ→Ⅵm7→Ⅲm7→ⅣM7→Ⅴ」の部分。ここは「夏が来ないままの~」の部分と同様、「逆循環進行」である。ただし、ⅥmとⅢmの順番が変わっている。とはいえ機能としては「SD→D→T代理→T代理」なので、問題はない。そして、最後の「ⅣM7→Ⅴ」という「SD→D」を経て、曲はB♭majorからBmajorへと半音上に転調し、大サビの爆発を見せる、という展開になる。

 ここで進行が「Ⅳ→Ⅴ→Ⅲm7→Ⅵm」から「Ⅳ→Ⅴ→Ⅵm7→Ⅲm7」に変わっているのは、続くⅣM7 への行きやすさの違いからだと考える。
 一般に、コード進行においては、ルートの動きが大きいほど、進行感が出ると言われる。よって、Ⅵ→ⅣよりもⅢ→Ⅳの方が進行感は低い。だが、その分次のコードへの移行がスムーズになる。また、ここでは、Ⅲm → ⅣM7 → Ⅴと、ひとつずつコードが動いている。
 よってこの箇所では、このようにトニックから徐々にドミナント、つまり緊張へと向かっていくことで、大サビへの盛り上がりをお膳立てしているように思われる。

 まとめると、弾き語り版のこの箇所では、「逆循環進行」と進行感の薄いコード進行によって、どことなく儚げな、それでいて浮遊感のある、突き抜けた感じを醸し出している、ということになる。これもまた、弾き語り版の「エモさ」の理由なのだろう。

3. コード進行と共にみる「夜明けと蛍」考察

 本稿の最後に、この大サビ前の部分を中心として、コード進行を歌詞と照らし合わせながら、「夜明けと蛍」という曲を考察していこうと思う。具体的には、この箇所の逆循環進行が与える浮遊感を手がかりに、楽曲全体の意味を考察していく。コード進行の点からいうと、ここからはほぼ余談だが、興味がある方は読んでいただければ幸いである。

 先にも言った通り、この箇所の逆循環進行は、浮遊感のある突き抜けた感じを醸し出しているように思う。そしてその効果として、真夜中から夜明けへと時間が移り変わっていくこの曲の中で、夜の終わりと朝の始まりの境界線における宙吊り感が演出されているのではないか。さらに言えば、憧憬の対象である彼岸と此岸との刹那の交わりが演出されているのではないか。以下にそう考える根拠を詳述する。

 大サビ前のところでは、「夏が来ないままの空を描いたなら 君は僕を笑うだろうか」と歌われている。
 この「君」は、2番のサビで「君がまた遠くを征くんだ」と言われているように、どこか遠くにいる存在である。それどころか、1番のサビで「浅い浅い夏の向こうに 冷たくない君の手のひらが見えた」と歌われている。どこか向こう=彼岸に、「冷たくない」君の手のひらが見えたということは、此岸にいる「君」の手のひらは冷たくなっている≒死んでいる、ということになるのではないか。
 だとすると、「夜明けと蛍」は手の届かない場所にいる、もしかするとこの世にはもういない相手を想う歌なのではないだろうか。実際、Cメロでは「水に映る花を見ていた 水に霞む月を見ていたから」と歌われる。水に映った花や月は、「見られる」ものではあるが、「触れられる」ものではない。

 そう考えると、サビで使われているパッシングディミニッシュも、メジャーコードにディミニッシュコードという切ないコードを挟むことによって、彼岸にある何か手の届かないものに向けられた憧憬と郷愁を際立たせるのに一役買っているように思われる。

 そして、大サビ前の箇所である。ここから曲の終わりまでの歌詞は次のようになっている。

 夏が来ないままの空を描いたなら 君は僕を笑うだろうか
 明け方の夢 浮かぶ月が見えた空

 朝が来ないままで息が出来たなら 遠い遠い夏の向こうへ
 冷たくない君の手のひらが見えた 淡い朝焼けの夜空

 夏が来ないままの街を今 ああ藍の色 夜明けと蛍 

 問題は「夏」という語の解釈であるが、大サビの「遠い遠い夏の向こうへ」という詩句から、夏が彼岸そのものだとする解釈(「遠い」という形容詞が「夏」にかかっているものと考える)を採ろうと思う。

 「夏」を彼岸と考えると、「夏が来ないままの空を描いたなら」という歌詞は、「僕」が彼岸を目指すことを諦めたなら、という仮定法になる。だからこの箇所は、その諦念を前にして、彼岸に立つ「君」は「僕を笑うだろうか」と、半ば自嘲気味に「僕」が述懐している場面になる。さらに、「僕」と仮想の「君」とのこの邂逅は、「明け方の夢 浮かぶ月が見えた」と言われているように、夢うつつの出来事だったことがわかる。

 続く大サビでは、この曲最大ともいえる盛り上がりの中で、「朝が来ないままで息が出来たなら」と歌われる。夜はこの世のものとこの世ならざるものとが出会うことのできる時間だが、朝は生きた人間の時間である。よってこの詩句は、「朝が来ない」=ずっと夜のままで「息が出来」る=生きることができたなら、「遠い遠い夏の向こうへ」行くことが出来るのに、という反実仮想であり、ある種の諧謔ともとれるだろう。
 そのような感傷も、「淡い朝焼けの夜空」と共に終わりを告げる。どうしようもなく此岸であるところの「夏が来ないままの街」を、「藍の色」が染め上げる。そして、夜にしか見ることのできない「蛍」の光=夢うつつに垣間見られた彼岸の象徴は、夜明けとともにうっすらと消えていく。

 したがって、大サビ前の箇所は、夢=夜≒彼岸と、現実=朝≒此岸の入り混じった時間、どっちつかずで宙吊りな時間を歌っていることになる。どっちつかずだからこそ、彼岸と此岸は刹那的な接続を果たすことが出来る。そこは彼岸も此岸もない、ニュートラルな世界であり、「僕」の幻想だけが存在する唯我的な世界でもある。

 この宙吊り感を演出するのに、「逆循環進行」は大きな役割を果たしている。サブドミナントから始まる王道進行、進行感の薄いノンダイアトニックコードを交えた進行、そして大サビへの盛り上がりをお膳立てする4563の進行。これらのコード進行がおしなべて、夢うつつの世界を浮遊感・寂寥感・透明感で彩っている。これこそが弾き語り版における「エモさ」の真髄なのではないだろうか。

おわり。


 

 

 

 

 


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