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展覧会レビュー:アンディ・ウォーホル・キョウト(京都市京セラ美術館)

師走の慌ただしさをそのまま引きずり、未だに右も左も見るいとまのない今日この頃、
2/12で閉会してしまうことに気づき、京セラ美術館(京都)のアンディ・ウォーホル展に2/11早朝、妻子共々駆け込んだ。
とっても良い展示だったので、忘れぬうちにバーッと、思い当たることを記しておこうと思う。


01.「政治的な作家」というウォーホルへの憶測

まずはじめに、僕は特段ウォーホルに詳しいわけではない。
加えて、美術の専門家でもない。
その点を踏まえた上で以下のレビューを捉えて欲しい。

もちろん、ウォーホル作品は個々で見たことはあるし、ウォーホルから影響を受けたイメージはそこらじゅうに溢れかえっている。
しかし、ウォーホルの作品を頭からお尻まで、一挙に見ることのできる今回のような回顧展は僕にとっては初めてのことで、

「大衆文化の下らないアイコンやオブジェクトがなぜ美術作品になるのか?」

というポップアートへの平凡でありふれた疑念に、良くも悪くも終止符を打つ絶好の機会だと考えていた。

正直僕は、
「ウォーホル含めポップアートの作家は、ある種のアート界隈のレトリックの中で政治的にのし上がった人たちであるのではないか?」
・・・と、頭の左半分では考えていた。

「ありふれた大量生産品がそれそのまま、芸術作品となるとは思えない。」

「しばらくしたらみんな忘れてしまう商品やTVスター、そんな刹那的な存在の図像をちょっといじったところで美的な何かになるとも思えない。」

「ではなぜウォーホルがアートの巨匠として語られるのか?」

「自分の作品に正当性を与える批評家コミュニティと仲良くし、
自分の作品を買ってくれるクライアントと仲良くする、
つまり、単にともだち作りがうまかったからでは?」

「巧妙なレトリックの構築によって、
自分の作品の価値を政治的手法で確立させたのでは?」

もちろん、
仮にこれらの短絡的な憶測が事実だったとしても、それは悪いことではないと個人的には思う。
社会への批評性があれば美学がどうのこうの以前に、そのアートには意味があるのかもしれない。
仮に批評性すらなかったとしても、現にウォーホルの活動は世界中の人々に多大な影響を与えている。
デュシャンも先んじて、ある種のレトリックを運動へと昇華し、便器を展覧会に出展したことは、美術の教科書にも載っている。

02.大衆文化よりも遥かにポップであること

結論から言うと僕のチンケな憶測は思いっきり裏切られた。
実物でみるウォーホルの作品は、極めて美術であり芸術作品だと感じた。

もしかしたら上記の憶測、つまり「政治的作家」としての側面も幾分かあったのかもしれないが、
京セラ美術館の回顧展が提示するウォーホルは、実物の芸術作品をもって自分の美学を実行する作家だった。

展覧会序盤にあった「花」の作品がそれを実感する良いキッカケとなった。

花をモチーフにした作品、意外と大きい絵

花屋の店先に並ぶ花は、市場を軽やかに流通し、僕たちが日常的に売買し、愛でる、ありふれた商品の代表例だ。
しかしそれと同時に花は、野山に生きる美しい自然の一部でもある。
つまり「花」というモチーフはそれ自体が「市場」であり、同時に「野生」でもあるわけだが、
ウォーホルはそれをべた塗りの色で塗りつぶし、店先に並ぶ花以上に市場的(ポップ)なイメージへと変貌させた。

「ポップなイメージでは芸術ではないのでは?」

・・・と思われるかもしれないが、
ここが本当に面白い点。
ウォーホルの作品を見ると、

「自分たちが常日頃目にする大衆文化は実はそこそこポップなだけで、その先にもっと極まったポップがある」

ということを知ることになる。
大衆文化=ポップだと思い込んでいたところが、
実は大衆文化はポップ20%程度で、ウォーホルの図像操作により「花」はポップ80%ぐらいまで跳ね上がる。

ウォーホルは花が好きだったらしい。自身の美学にマッチしやすい題材だったのかなーと思った。

ここまでポップだと、
ウォーホルの花は、ポップなのに、もしくはポップであるがゆえに常軌を逸し、
ポップアートとしての美しさをまといはじめる。

03.「なんでもない」からこそ、超越的な美に至る

大衆文化や市場はポップの限界値ではなく、
それをさらに極めた先に実は、
美学にも昇華しうるポップの極みがある。

花はそんなウォーホルの美学に近しい素質をもつモチーフだが、
花のようなモチーフでなくでも、
・・・というより美や野生、芸術から遠ければ遠いほど、ポップアートが美術として成立するということを、
大量生産品やTVスターの俗っぽいイメージを加工した作品からは感じることができる。

有名人がモチーフだが、どれがだれかは知らなくてもグッとくる作品
箱は商品の実物ではなく、ウォーホルが手作業で一つ一つ作ったらしい

写真では伝わらないが、
これらは、実物以上にポップになるように作られている。
大量生産品は実物の商品そのものをレディメイドよろしく展示するのではなく、実物の商品以上にポップになるよう、
きれいに立体物を整え、より精密に表面をプリントしている。

牛はよりポップな牛らしくなり、
パンダはよりポップなパンダらしくなり、
TVスターは人間性をはぎ取り線や色の集合に変換される。
エルビス・プレスリーは、実物のエルビス・プレスリー以上にポップになるよう、二重の図像にされて提示される。

エルビス・プレスリーが出演した映画の図像が元ネタらしい

いずれは忘れ去られてしまうであろう、単なる流行りもののイメージやオブジェクトたち。
現に僕にとっては、半分以上は知らない商品や人物だった。
これらは、上記の「花」と同様の意図をもって極まったポップ、常軌を逸した美学に昇華されているのだが・・・
「花」と決定的に違うのは、
モチーフがとてつもなく「刹那的なもの」「芸術作品とは一見ほど遠いもの」「どうでもいいもの」「なんでもないもの」
であることだ。

ここで、田中純氏が哲学者 シモーヌ・ヴェイユを解釈した一節に思い当たる点がある。
以下はその引用だが、キリストの聖体(ホスチアというパンが用いられる)についての議論を論じている。
([※○○]は僕の補足です)

ヴェイユはホスチアという「少しばかり形相のない質料、少しばかりのパン」のうちにカトリックのあらゆる教義・秘蹟の中心を見た。キリストがそのような聖体に現前するというのは不条理なドグマに違いないが、しかし、不条理さこそがこのドグマの力である。「[※キリストによる]約束によらなければキリストはこんなもののなかに現前しえない」という事実は、聖体を単なる[※キリストの聖体の]記号と見なす根拠となるのではなく、むしろ全く逆に、この事実によってこそ、キリストは聖体のうちに完全に現前する。聖体におけるキリストの現前という秘密のうちに人間の思考は立ち入ることはできない。だからこそ、この現前は完全である、とヴェイユは言う。まったく美を欠いたちっぽけなパンが、絶対的な純粋性としての美を「約束」として現前させるのである。

「美のトポス、その限界と外部」著:田中純(雑誌「思想」2017年11号p20)

上記引用の元テキストはその後、聖体(パン)を食べることに言及し、より深い議論へと至るのだが、
上記引用にのみ限れば、以下のように要約できると思う。

「聖体とは縁もゆかりもない無関係で美しさのかけらもないパン、
つまり『なんでもないもの』こそが超越的(キリストの現前という奇跡)になりうる」

もし仮に、パンが聖体の代わりになる根拠もしくは関連性をいくらか持っていたとしたら、
その根拠・関連性をもとにそれが「聖体にはなりえない」ことを反証できる可能性を、
引用に従って言い直せば、「秘密のうちに人間の思考が立ち入る」スキを、
多少なりとも残してしまうということになる。
もしパンを真に聖体まで昇華するには、「立ち入るスキ」になりうる根拠や関連性をどこまでも消し去った、
限りなくつまらなくて無関係な「少しばかり形相のない質料、少しばかりのパン」であるべきであり、
その「なんでもなさ」が逆説的に超越的になる。

この狐につままれたような「聖体とパン」のカラクリは、ウォーホルの作品にも多少あてはまるところがあるように感じた。

「花」は商品になりえる反面、野生の側面を持ち合わせた、もともとそれなりに美しいものだったが、
ウォーホルが作品のモチーフとした大量生産品や人物は、その当時は輝いていたとしても、超越性や美、芸術作品とは程遠い、
刹那的で、はかない価値しか持ち合わせていない
いわば「なんでもない」ものたちだ。
しかし、それらから可能な限りポップのエッセンスを引き出し再構成しながら、極限までポップな図像にすることで、
「刹那的なモチーフを使ったからこそ超越的にも近い美学を得る」
という、聖体とパンの逆説性にも似た反転現象が起きる。

周知のように、実物のパンダはこんな色も輪郭線も持ち合わせていない。
しかし、これはある意味、実物よりもよっぽどパンダ(ポップ)かもしれない。

刹那的な流行りもの達は、
刹那的だからこそ逆説的に永遠に残る作品となり、
ポップアートという装置によってエンバーミングされる。
儚い一瞬の輝きを永久保存する、
それは難しいことは抜きに、鑑賞者にズンと来る美学だと感じた。

04.実物の作品を見ないとウォーホルの美学に至れない理由

「なんでもない」流行りものを芸術にするための手法はモチーフによってさまざまだが、
いずれも、質感やサイズといった諸々の性質を細かく設定し成り立っているように感じた。

展覧会によれば、ウォーホルは意外にも敬虔なキリスト教信者だったらしい。

つまり、ウォーホルの美学は実物の作品がもつ諸々の性質を統合して出来上がるポップ純度80%のものであり、
本やウェブサイトで見てもそれはポップ純度は感覚的に40%ぐらいまで落ちてしまう。
また、ウォーホルの手法をコピーして大衆文化の図像をよりポップで市場原理に即したものにしようとするフォローワー(非芸術家・売り手)が大量にいるので、
市場のポップさは純度20%から幾分か底上げされ、ウォーホル作品がメディア媒体で見た際に埋もれる原因となっている。
結果、現代ではウォーホルの作品をナマで見ない限り、ウォーホルの作品群は
市場原理に駆動された、反-芸術的で「美」とは逆の活動だっかのように映る。

・・・もちろんこれは僕個人が冒頭の憶測にいたる理由に過ぎないし、印象論の域を出ない。
しかし、一般的に流布されているイメージと、作品実物、
この2つの間のギャップをここまで感じた作家は久しぶりだったのは事実だ。

他の人はどう感じたのだろう?

05.オルタナティブ・パブリックネス論、コモンズへの接続(「なんでもないもの」が突然輝く方法)

ウォーホルの作品に興味があったのは、自分の実践とも接続しうると期待していたからだ。

「アメリカ大衆文化という流行りものを、芸術作品に反転させる方法とは?」
「なんでもないものを、美しく価値のあるものにひっくり返す作法とは?」

この論点はグレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論(ooo)にも接続するだろうし、
だからこそ、oooのフォローワーがアメリカに多いのかもしれない。

また、自分が建築設計とリサーチのヴィジョンとして掲げる「オルタナティブ・パブリックネス論」も、
「なんでもないような、些細な場所や集団を一つ一つ拾い上げ、最大限価値を見出す」というものなので、
ウォーホルの手つきはとても惹かれるものがあった。

まだ明確に言語化できるわけではないが、デザインの中で自分で手を動かしながら考えていきたいと思う。

さらに、これは自分が専門とする範疇の話ではないが、
現代におけるコモンズを考えるヒントになるのではないかと感じた。
大きな物語を万人が共有し連帯するのではなく、小さくて些細な物語や対象を少人数が共有し、一時的かつカジュアルに連帯することができる、
そんな人々のまとまり方を仮にコモンズととらえるなら、
そのまとまりの中心には大層な根拠はいらない。
むしろ、いろんな所で難しいことを抜きにコモンズが多発する方がよいのであれば、「なんでもないもの」がふとポップし、幾人かの間で輝いている方が都合がいい。

ならばそれは、ウォーホル作品がアメリカという歴史の浅い国に作り上げた国家意識にも通じるように思う。

[お仕事の依頼や相談は下記連絡先まで]
nishikura.minory@gmail.com
MACAP代表 西倉美祝
ウェブサイト : https://www.macap.net/
インスタグラム: https://www.instagram.com/minoryarts/

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