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自分の経験を肯定して原動力とすること

「支援」とか「助け合い」とか、「家族」とか「仲間」とか。心の底では求めているはずなのに、いまいち自分の口から発していることばじゃない気がする。

私は「不」を原動力とする人間だ。この世で生きていて、社会の不条理や人の薄情さなど、自分勝手で自己防衛ばかりの世界を見てきた。みんなほとんど同じ世界で生きているっていうのに、この不条理に気づかず偏見を巻き散らかす人間が多すぎて吐き気がすることもたくさんあった。昔よりは自分を肯定できたし前向きに活動していこうとしているけど、私が自己発信や前向きな活動をするにおいて「ピュアな想い」や「ビジネスロジック」のような手法はできないと思った。「手法」とか言ってる時点でもう歪んでいるけど。誰に対して発信しているかと問われたら今ははっきり言えない。それでも私は、人の怒りや悲しみを汲んだ”前向き”な活動をしたいと決めた。そんな決意の表明としてこの記事を残しておきたいと思う。


人はそもそも孤独な生き物である。そして不安や責任に圧迫され、「繋がり」を求める。一時的な安心だとしても、ともだちや恋人、家族という繋がりがないと生きていられない。もちろん私もそうである。

「一人が好き」とか「恋人はいらない」といっている人もいるが、大抵は幸せボケしてる親のスネかじりか弱さを見せたくない天邪鬼である。みんな本当は寂しいくせに、お互いに「弱さを露呈してはいけない」という謎の倫理観に囚われているから、弱い者を見つけてストレスをぶちまけたいんじゃないかと思う。


繋がりを求める人間だからこそ痛みや悲しみを知っている。思ったように伝わらなかった時、たった一言で関係が崩れてしまった時、刃となったことばは人の心の奥底に刺さり続け、また人間らしくなる。それがどんな形に消化されるかは環境と思考の密度によって美しくも腐りもするけど、どうしてもゼロには、なかったことにはならない。


そういった、痛みや悲しみのようなマイナスな体験は人を強くも優しくもできると思っている。だって、自分が痛かったのを知っていたら、人が痛んでるときに気づけるでしょう?


気づけるけど

その人にどんな形で手を差し伸べられるか、差し伸ばしたくもないか、その選択によっては、「支援」にも「犯罪」にもなり得ると思っていて。その人の「深さ」を指標するものがこの社会にはないから、自分で何かしらにしがみついていないと叩きのめされるわけで。


周りに評価されないまま生き埋もれていくわけ。



私もハッピーエンジョイサマー(?)みたいなあっかるい幸せを感じてそんな明るさや自信で人を巻き込んでもっともっと幸せの輪を広げられるような人格者になれなくて過去を恨んで悲観的になってたこともなくはないけど、自分に強くて明るい幸せを知っている人はその人が与えられる役割があっていると思ってる。あったかくてやさしくてまあるい人をみると、なんでこうなれないんだろうって思ったこともあるけど、私は私の知っている世界からパワーをもらえばいいだけだし、今までの趣味嗜好や世界観に間違いはなかったって肯定できただけでめっちゃ楽。

音楽や踊りや絵に表現できるアーティストだったらよかったけど、どうもそんな才能はないみたいだから私の思想を受け入れて汲み交わして表現できる天才と出会いたいと思ってる。人は一人では生きていけないしそろそろ斜に構えて安全地帯確保するのもやめよ?って。あ自分に言ってることだよ。


とりあえず自分が今まで生きてきた人生も何かしらのパワーに変えられる余白がある人は、一時的な安心(風)や依存に染まらず、じぶんの居場所を探して表現して生きるをしてくれたら嬉しい。


もう「一般」とか「体裁」とかも無理だし、前向きに活動しているあったかいやわらかい人たちとも違うから、自分なりの原動力と表現法を肯定できたことに意味があるって改めて感じれた。不からパワーをもらうと、戻りたくない過去に感謝できるメリットがあるのでおすすめだよ。

なので私はこの不の経験を前向きに、原動力にカタチにしていく。それを忘れて型ハマりな社会で殺すわけにはいかないし、綺麗事並べてあったかい支援をしても私が会いたい人には会えない。

あったかさで救われる人はあったかい人に任せて、私はあったかい人に学びを得ながらも、ちがう色の表現をしていきたい、



諸々詳しい話は随時コンテンツにしていきます。


取り急ぎきろくまで。





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