老後の充実度は、孤独といかに友達になるかにかかっている(ちょっと辛口トークです。)
以前、経済的に恵まれたお年寄りが話し相手がいなくて寂しい、生きていてもつまらない、と漏らしていた話を記事にしました。
とてもたくさんの方に読んでいただいたので、また少しこの話を掘り下げてみたいと思います。(ちょっと辛口なので、苦手な方はご遠慮ください。)
幸せにしてもらいたい願望を捨てる
話し相手がいなくて、一人でさみしい、というお年寄りは多くいます。
高齢者は増える一方なので、高齢者だけの世帯も増え、一人暮らしのお年寄りも増えています。
でも、さみしい、と漏らすお年寄りは、実は施設などで集団生活している方の中にも多くいるのが現状。
どうして、このような事態になっているのでしょう?
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それは、心が満たされること、幸せだと感じることを、他人や外の世界との関りの中でしか感じてこなかったからだと思うのです。
本当は、老後は人生の集大成として、一人、自分と向き合う時間をゆっくり大切にすることこそ、醍醐味だと私は思うのですが。
「話す相手がいないと寂しくておかしくなっちゃう。」
厳しいい方ですが、そういう方は、年齢的には大人かもしれませんが、
私は「子どもっぽいな」と思ってしまいます。
経済的には自立しているかもしれないけれど、
精神的には自立できていなくて、誰かに頼ろうとしている。
自分自身が満たされる術を知らなくて、
誰かに楽しませてもらおうと待っている。
それは、体が不自由で介護が必要なのとは、別に考えなくてはいけないと思う。
結局は、「自分がない」ということ。
人は本来、みな孤独なはず
都会暮らしをやめ、森の中で小屋を建て一人で孤独な生活を送っていた、アメリカの作家であり思想家のヘンリー・ソローは、孤独に関してたくさんの著書で触れている。
この一文のその一つ。
完全に一人になれと言っているのではない。
だけれど、ひとりでいることが、本来人として健全だと述べていることが、とてもしっくりくるし、清々しくすらある。
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自分の内面を育てられることを、いつからでもいい、気づいたときから、
そういう思考を持っておいた方がいい。
誰かとどこかにいかなくては自分を満たせないとしたら、
それは不幸な晩年が待っているかもしれない。
どんなにお金があったとしても、いつかは命が尽きる時がくる。
その直前にはどんな体になっても、どんな環境に置かれても、
自分を保つ術を持っていなければ、残りの人生は他人任せになるか、
生きているがつらい時間になるだろう。
究極的に言うと、刑務所でも自分を満たすことができる何かがあるか
うまく、想像できない人のために、
もう少し晩年の具体的なイメージを持ってもらうとしたら、
刑務所生活になったとしても、これがあれば大丈夫、ということがあるのか。
それが、望ましい「何か」だと私は思う。
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たとえば、ホリエモンは刑務所生活をしていたときでも、本を読むことや、メルマガの発行のための執筆をつづけていたと言います。
沈黙の中で生涯を過ごす修道会の修道士たち
2014年放映されたドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』。
この映画は、フランスアルプス山脈に建つグランド・シャルトルーズ修道院の生活を映したもの。
この修道会では日曜日の昼食時以外、一切の会話が禁じられ、沈黙と静寂の中で生活する修道士たちがいる。
ホリエモンの獄中生活、静寂の修道会。
極端すぎて、参考にならないだろうか。
どちらも自分とはほど遠い世界だろうか。
自分には関係のない世界だろうか。
こんなさみしい、何もない生活は嫌だろうか。ムリだろうか。
でも、足腰弱って一人ではどこにも行けない晩年になったら、
それと似たような日常が待っているかもしれませんよ。
その中で、あなたは何をよりどころにして生きていきますか?
何もこの人たちと同じ生活をしろ、というわけではないけれど、
こんな状況下でも、自分を保ち、心を満たした生き方ができる人たちもいる。
そう考えると、自分の日々の在り方も少し、見直せるのではないだろうか。
私は、一人がさみしいと嘆くお年寄りには、
獄中のホリエモンやこの映画の修道士たちよりは、
もっと自由だし、もっとできることがある、と言いたい。
それなのに、何もせずに他人に何かしてもらうのを待っているだけで、
自分の精神性を磨く生き方ができなれば、
「最期まであなたは幼稚な子どもですよ」と、
ちょっと厳しめですが、いいたい。
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そして、やはり、
してもらうことではなくて、
してあげることを、最後の最後までし続けていた方が、
やっぱり幸せだと思うのだ。
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