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あなたはどんな場所でどんなふうに死にたいか、イメージができていますか?

こんにちは。今日は、

あなたはどんな場所でどんなふうに死にたいですか?」というお話を、終末期病棟で働いた経験をもとに、お話したいと思います。

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人は誰もがいつか死にます

でも、現代社会で生きていると、まるでそれは考えなくてもいいことのように、リアルではなくて、生も死も、日常生活から切り離されていて、ブツ切れで、生と死は病院という箱の中に閉じ込められているのが、私にはとても不自然に思えてなりません。

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終末期病棟では、ここ何日かはご臨終ラッシュで、バタバタです。昨日も、もうすぐなくなりそうな方を個室に移して、家族の方と最期の時を過ごしてもらっていたんです。

たいていの場合、患者さんは高齢者ということもあり、そんなにたくさんの面会はないんです。コロナ禍ということもあり、2~3人で来られて少し面会して、あとは応接室で最期の急変時まで待ってもらうか、一旦帰ってまた駆けつけるか。

でも、今回の患者さんの場合、近所に家族が住んでいたこともあってか、10人くらいの親族が次々に面会に来られたんです。

普段はコロナ禍で面会も自由にできず、さみしい日々を過ごしていた患者さんたちなので、たくさんの家族に見送られてよかったなと私は思っていたんです。

でも、他の看護師さんたちはそう思っていなかったみたいで、「こんな時(コロナ禍)に大勢でくるなんでどうかしてる」と怒っていたんです。

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確かに、病院の管理者の立場からしたら、困った状況だったのかもしれません。病院という組織の中では仕方のない意見でもあります。

私はだからここで、他の看護師さんたちのことを批判したわけではないのです。

病院で亡くなるということは、家族の最期の時に面会することすら、自由にできない、ということ意味するということです。

融通がきかないんです。病院は。

亡くなる直前の患者さんとその家族が最期の時を一緒に過ごすことすら「迷惑」と思われてしまう。余韻に浸ることもできず、さっさと次の段取りに移らされてしまう。

そこには、一人の人が亡くなる、という出来事が、病院の日々の業務の中に流れていってしまって、立ち止まることが許されず、ただ過ぎていくだけ。

本当は、それぞれの患者さんには個々の人生があったはずなのに、最後は病院の「死亡退院」というパッケージに収まってしまうのが、なんだか味気ない気がします。

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人は年老いていくと、病気になり、足腰が動かなくなり、病院や施設に入ってなくなる、ということが一般的な現代社会の最期でしょうか?

私はそこに、違和感を感じます。

生も死も、人生から切り離されたくはなく、最後に死ぬ瞬間まで自分でコントロールできる生き方、死に方がしたい。

そのお手本としている人がいます。

ルイジ・コルナロという中世に生きたイタリア人です。

彼は、食事を極限まで減らすことで、若い頃より体調を回復させ、最後に眠るようにベッド上で死ぬ直前まで仕事もしながら元気に生きた人です。

私も彼にならい、最後の時まで元気に過ごせるよう、体と心を整えて、生きていきたいと思っています。

こちらの記事も参照ください☆

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助産師として、バースライフスタイリストとして、「産みたいときに産みたい場所で産む」という生き方を提案していますが、今日はその対極にある、死をテーマにしたお話でした。

でも、私は生と死、どちらも、日常と切り離されない人生が本来の人間の生き方なんじゃないかなと思っています。

なかなかうまくいかない現実もあると思いますが、みんな一定のルールで進んできた時代から、多様性の時代に変化しているわけですので、生も死も、もっと身近に考えられる生き方を提案していきたいと思っています。




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