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箱の中の幸せ

幸せの定義は人それぞれ。本人が幸せなら、それは幸せ。だと私は思っている。

しかし今回は、傍から見た幸せについて言及してみる。

クズでも幸せじゃん、羨ましいと思っていた頃

私は過去「皆だいだい2か月で辞めていく」「1年いればベテランだね」なんて冗談が出るくらい、毎月誰かが辞めていく会社に勤めたことがある。

自分の自尊心を満たせそうな、歯向かって来なさそうな人には「私はそれは好きじゃない」と言って意味のないことをさせたり、わざと違う数字を伝えてミスをさせて、周りに人がいる中でミスしたことを追求する上司や先輩

勤続年数が長い人は概ね、自分の好き嫌いで人に怒鳴り散らしたり、人格を否定したり、噂をバラまいて評価を下げさせたりするような人たちでした。

パワハラしている人に対しては何も言わないのに、パワハラされている側には「受け入れられないのは人間力がないから」とか、「誰とでも関係性を築けないのは社会人失格だ」と言って責め立てるため、それに悩んで辞めていく人が何人もいました。

「私たちは優秀。私たちの思想についてこれない人は凡人で不要な人間」だと、新人研修の時や会社の節目の時に言われたことも衝撃的な思い出として残っています。

内心、会社の人たちの持っている思想にドン引きしていました。
しかし、私はその会社の人たちが羨ましくて仕方ありませんでした。

その会社で長く勤めている人達は、仲が良かったんです。
あなたが嫌うなら、その嫌われた人が悪いとかばい合っている姿を見ると、絶対的な安全圏があるように私には見えていました。

どうして馴染めないのかとずっと悩みながら勤めていましたが、結局はパワハラで精神を病んで辞めました。

パワハラされた時のことだけではなく、「パワハラされる方が悪い、あなたは何か障害でもあるんじゃない?」と笑いながら言われたことも、今でも忘れられません。

私から見て、その会社で私が関わった人たちはクズでした。

それでも、その人たちは職を追われることもなく、仲良しこよしで働くことができて、その事実が羨ましくて仕方ありませんでした。

それは本当に幸せなのか?

上記の会社を辞めてから数年後、私はホワイト企業の存在を知り、また平穏な日々を送ることができるようになった。

そうした中で、私は自分がかつて羨ましくて仕方なかった会社のことをよく思い出すようになりました。

そして、羨ましいと思っていた人達に、なりたいか?という問いに、以前のようにYesと答えないようになっていました。
「本人が幸せなら、幸せなんだから良いよね」と、自分の羨ましい幸せではなく、他人としての幸せとして捉えるようになっていました。

私は、自分の好きなように人に怒鳴り散らして、嫌がらせをして、罪悪感を抱くこともなく好きに相手を攻撃できてストレスもたまらず、パワハラしていた人たちは幸せだよなぁと本気で思っていました。

「他人を攻撃する人が幸せな訳ないでしょ?」と言われても、あまりピンと来ていなかったんです。

しかし、最近になってよく分かりました。
攻撃している人って常にイライラして、自分の抱えている問題を他人のせいにしているから根本解決はされず、今は大丈夫でもその先も大丈夫とは限らない、ある意味では時限爆弾を抱えているようなものなのだと……

人は楽な方とか悪い方にはすぐに染まるけど、そこから努力をするとか改善するという方向にエネルギーを使うのは、すごく大変なことだと理解するようになったからです。
人を攻撃して感じられた快楽は、止めようと思っても止められず、行きつく先まで行かないと、自制ができないのだと分かりました。

パワハラしていた人たちが全員、行きつく先まで行きつくのかは分かりませんが、可能性は高いのだろうと思います。

そんなことを考えた時に、私が見ていたのは箱の中の幸せの1つに過ぎないのだと思いました。

箱の中の幸せ

会社って1つの社会ですよね。

その中での幸せというのは、あくまでも1つの可能性であって、別の会社に行けば、他人を攻撃しなくても良い環境で働ける幸せがあったり……

そもそも、独立してどこかに属さなくても良い幸せがあったり……

様々な可能性が、どんな人にもある。

その会社の人たちは「この会社で働ける人は幸せだ」とよく言っていたが、それこそ、他の可能性が見えない箱の中に閉じこもった考え方だったのです。

箱の中しか見ていないから、他の可能性が見えない。
かつての私と同じです。

彼ら、彼女らはきっと、ずっと幸せが続くのでしょう。
あくまでも、その箱の中では。

私たちは所属する場所の思想によって、自分の幸せを左右されます。
決して、可能性を見失わないように、自分の思想に合った場所に行くことが重要だと思わされますね。

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