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理不尽を受け入れることは苦しくて、けど生きやすい

最近、これは因果応報かな?と思う出来事があった。
"ある条件を満たした女性にだけ"嫌がらせをしていたAさんが、性別特有の病気に罹患していることを知った。

もう既に関わりがなくなってかなり時間は経ったものの、かつては自他ともに認めるほど健康的な人だったのに、性別特有の病気にだけは罹患する様子を見ていると、「これは、性別を理由に人を苦しめた因果応報では?」という考えがよぎった。

因果応報があっても虚しい

もし仮にAさんに起こったことが因果応報だったとしても、私からすれば「あれだけ苦しんで、これだけか……」としか思えなかった。

私は体調を崩して職場を退職するほど、Aさんに苦しめられた。

病気になったことも大きく苦しんだし、働かないといけない中で医療費もかかり、職場を失うという苦しみは相当なものだった。

それに1番大きな損失は、次の職場でも同じような嫌がらせをされたらどうしようと考えると、働くことすら怖いと思うようになってしまったことだ。
心を傷つけられると、人は動けなくなる。

Aさんに対して抱いている怒りと憎しみ、恨みに対して、それに釣り合う因果応報だとは到底思えない。
(他にも嫌がらせをされていた人たちの恨みも合わせると、本当に足りないと思う)

もちろん、病気にかかることがどれだけ辛い事なのかは理解している。

しかし、なんだかんだAさんは後遺症もなく治療できてきたからこそ、人に嫌がらせをし続けられるのだ。
今度はどうなるか分からないとはいえ、私の心情としては「たかが治療すれば治せること」としか思えなかった。

因果応報が起こったとしても、自分が受けた傷が無くなるわけではない。
恨んでいる相手がどれだけ不幸になろうと、自分に対して何か利益があるわけではない……"なんて虚しいのだろう"という気持ちが沸き上がった。

理不尽

本当に因果応報だったのかも分からない。
しかし、1つだけ分かることがある。

それは、理不尽が存在するということだけ。

どれだけ苦しんでも、それが相手に伝わることもなく、そして相手に因果応報があっても、自分には何も利益がない。
自分の受けた傷はなんとか自分で癒すしかない。

というかそもそも、同じ状況でも助けのある人ない人がいたり、タイミングの違いで天国だったかもしれないものが地獄になったり、どうして自分だけ?と思うことがある。

それがどうしても受け入れられなくて、ずっとこだわり続けてきた。
良い子で居れば嫌なこともないのではないかと思って、優等生であり続ける努力もしてきた。
今思えば、それすらも傲慢だったのかもしれないが、必死だった。
しかし、それでも理不尽は終わらなかった。

受け入れる

最終的に出た結論として、理不尽を受け入れてしまえば生きやすいということだ。

因果応報を願っても虚しくなるだけ。
傷つけられたら、すぐに対応して然るべき対処をする、もしくはすぐに離れることしか自分を守ることはできない。
どうして加害者は罰も受けず、自分が居場所を取られないといけないのか!?という理不尽に対する怒りすらも受け入れて、とっとと嫌な奴とは関わりを絶つことが自分の幸せには1番重要だと思う。

嫌な奴が幸せだろうが不幸だろうが、傷つけられた事実、損害を受けた事実は変わらない。
それなら、今後は一生関わらないことを願って、必要であれば法治国家に相応しい対応をして去るしかない。

中には時間やお金をかけられないから、本当なら裁判にかけられるのに、できないという悔し涙を飲むこともあるだろう。
しかし、もしそうならそれでも良い。

ただ、嫌な奴と今後関わることがなければ、また幸せになれる。

長年、因果応報が起きれば私の抱える怒りも収まるのではないか?と思ってきたが、結局は意味がないことがよく分かった。

最大の復讐は自分が幸せになることという言葉は、真実だと思う。

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