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麗しき昭和の面影:置物編

昭和時代の麗しさは昭和生まれの者にとっては”離れたくても離れられない”妙な魅力がある。
様々な「物」の完成度が高いのは勿論のこと、手抜き無く哀愁を漂わせるそれらは、昭和人の人生の美的感覚・感性向上に貢献してきたのは間違いない。
「ものを見る目」というのは「本物」を知らなければ培う事が出来ない。本物が溢れていた時代、それが昭和。もっと言えば大正・明治・・・・という事になるし、突き詰めれば縄文・・・・だけど、それはクソ長い話になってしまうから今回は「昭和」ということで。

昭和時代の物が2024年になっても、その美しさを残し続けられるのは「丁寧な物作り」すなわち「技術」「大和魂」を大切にしていた証のように思う。
現代社会で産み出された様々な物は「一見、素敵。」であり「一見、豪華。」なものが多いように思うけどそれはどれも”張りぼて”で、細部を見れば・手に取れば「こんな糞カスな作りとヘボグズ材でこんな高価なのかよ!?」と信じられないほどの「ぼったくり感」が漂う物ばかり。木製品に関してはマジで顕著にクソ感が漂っている。家の作りもしかり。日本の大工は絶滅したのか?
よって、それらの耐久力は”ソレ相応”だ。潤滑に経済が回るように出来たスゲー技術。

商品の質の低下には様々な原因がある。
物価高騰・”ヤレる”人材(職人的ポジションの存在)の欠如・現代人の物へ対する意識の欠落・・・・・、それらは100円ショップの登場と共に加速したように感じる。
色々あるだろうけど、結局のところ世界中の人々が「便利で、”ソレ”を維持するのに手が掛からなく、”出来の良さ”より見掛けの美しさ」を追求した末路が「今現在の状態」という事になると思う。(使い捨ての手軽な生活)

 ”今現在の状態”とはどんな事かというと「徹底的に色々消費しろ」「古いものは捨て去り、常に新しいものを追い続け、それに食らいつき経済を回せ」という世界共通の概念。その一方で「環境問題あーだこーだ」だの、どじょっこだのふなっこだのと騒いでるんだから低能過ぎて屁も出ない。
極端な話、この消費社会から人類が離脱しない限り環境は守れない。これは言い切れる。わたしは自給自足を超えた半野生人として生きていたから、その事に関しては人一倍の確信を持っている。
だから「どこぞの店は、環境を考えてプラスチック製をやめて紙製のストローに変えた」とかいうクソちっせ~クズ話題を聞いたりするとムカついて仕方ない。
そんなもんは耳糞レベルの問題で、その程度で環境が改善されるなら「おめでたいですね」・・・だ。
環境守りたいのか、それとも消費社会でウハウハ幻想じみた現代の生活を謳歌し続けたいのか、どっちかにハッキリ決めろと言いたい。
・・・・・と、話がクソ逸れたけど、もとにもどし・・・・・

そうでなければ新しいモノは生まれないし、経済を潤滑に回し続けることはできない。
古いモノをいつまでも大切にするような文化は今は必要ないという事。

 その証拠に家電の寿命や、家具の耐久性は昭和時代の物とは比べ物にならない位、現代のモノは色々な意味で低下している。
だから「買い替え」のタイミングやスパンは限りなく急速であるのは否定できないのは事実。

わたしの知り合いに80歳近いババアがいて、そのババアは嫁入りの際に自賛した電子レンジ(そのババアの嫁入り時代に電子レンジは超高級品)をいまだに使っているいる。
それくらい、昭和の家電は丈夫でスゲー。
たまたまイイ出来のレンジだった・・・という解釈も出来るけど、それでも・・・・どうよ?昭和54年に買ったレンジが2024年でも健在なんだぜ?一度の修理も無くこの時代まで動き続けてるんだ。それは「スゲー事」とも思えるけど、よくよく考えてみれば「別にそれほど大したことじゃない」かもしれない。新しいもの好きな連中や高度経済成長を名目に、メディアを通し消費を促され、ソレにまんまと乗っかった奴らを「新商品」に食らいつかせる・・・。イイ商品は価値があるのにも関わらず「古いから、ナウくないから、新しいモノこそがステータスだから」という価値観を与え「ダセー」と言われて捨てられる。
そして人々が手にし始めたのは「すぐ壊れる。だけど、一見オシャレ。」な偽物ばかり。企業が創るのはそういうクソカスなモノばかり。

日本は最初から半永久的な耐久性のある高度な「モノ作り」技術があった。
でも、世界やGHQのアレコレなんかで「質を低下させ、商品の寿命を短縮させ、消費意欲を徹底的に煽れ」という方針に従った。
それこそが「人々を豊かな暮らしに導くサイクル」と信じて。
でも、どうだ?
人々は昭和時代よりも幸福になったんだろうか?
戦前よりも幸福な人達は増えたんだろうか?
「モノ」が溢れているだけで「幸せ」とは程遠い生活・思想で生きている人が爆増したんじゃないのか?
そういう事を考えてしまう今日この頃。
皆さんに今日は昭和の古き良き「モノ」を紹介するぜ。

わたしの父親が昭和時代、出張先の人に土産として貰ったコケシ。右コケシの腹に
「オゼ」と書いてある。

わたしの父親(養父)は日立に勤め、わたしの幼少期の殆ど、月の三分の一は出張で家に居なかった。
人としてのスキルが低く、生まれながらの末っ子気質(それでも実質長女)で不安症な専業主婦だった母親(養母)は、父の不在を一人では耐えられず、自分の弟を家に呼び耐え忍んでいた。
養母の弟は会社を経営していて自由がきき、わたしの父親のような存在でもあり、仕事が終わるとわたしの家に帰ってきた。
叔父はバイクが好きでハーレーに乗せられ、わたしは随分と色々な場所へ行くことが出来た。
当時のわたし(4歳~5歳くらい)はバイクというものが「外国人っぽい」という印象をもっており「自分が日本人ではなくなってしまんじゃないのか」という不安があった。

父(養父)不在の日々は叔父との楽しい毎日。
それでも父(養父)が恋しくなるのは子供としては当たり前のことだったのかもしれない。
そんな父が、出張先の人から贈られたお土産を持って帰ってくる夜は胸が高鳴った。
今回は何があるんだろう?
今回はどんな土地のどんなモノなんだろう?

コケシは出張土産の定番で見飽きてるし感動も無い。
でも、上に載せた画像のコケシの顔は可愛くて、だからこそ、未だに持っているわけで、養父の出張土産の中で「一番のコケシ」という事になる。
今も変わらず可愛い瞳で私の「棚」を飾っている。

ちなみに、養父が出張する際は必ず「横浜」を通るらしく、崎陽軒のシウマイは100%の確率で土産の一部に組み込まれていた。
そのせいか、わたしはシウマイを食い過ぎて、幼少時代以降シウマイが凄く嫌いだ。

こんなコケシは昭和時代は誰しもの家の玄関に必ず一つは飾られていたけど今はどうなんだろう?
もうないのかな?
一家庭に最低でも十体は有ったであろうコケシ・・・。

続いては、ウイスキーボトルに入った船の置物。
コレも昭和の定番。
大概の場合、こういうのは居間のステレオの上や本棚の中に飾られていた。
コレも昭和を代表する装飾品という事になる。

瓶に収容された船の装飾品

これは近所のオッサンが趣味で作ったもので、当時のゴルフ仲間全員に配った・・・とされているもの。
はたして、コレを貰ったわたしの養父を含むゴルフ仲間は嬉しかったんだろうか?そこが一番気になる所。

芸術的だし、気が狂いそうなほどクソ細密

そして最後は、どこぞの出張土産かもわからない温度計。
なんかわかんないけど、これもわたしが物心ついた時からある。
捨ててしまうには気が引けて、いまだにわたしの本棚に収められている。
これはガチの石で出来ていて重みがある。

鹿なのか犬なのかよくわからない動物の装飾

↑こういうのも玄関・ステレオの上にありがち。
昭和必須インテリア。

この今の現代で、親や叔父という立場の者が、自分の子や姪甥に残してやれて、かつ、大切され続けるものを贈る事は可能なんだろうか?そんなたいそうな物が現代にあるんだろうか?
モノは所詮モノ。それでも、ここは物質世界。
「残せる」モノ「遺す」ものにはエピソードも含め、価値があってこそ・・・・・・・と、強く感じる。

読んでくれて有難う。
また会おうぜ、あばよ!

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