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Soup Noodle Cuisine考

次の俺の店は絶対に凄いことになる。
信じている…というよりは、それは当たり前に予定されていることのように思えてくる。

それは行列店になる

とか

常に満席

とか

そんな簡単な意味ではなく、ある意味世界に影響を及ぼす存在になるんだろうなぁ…俺の店と…

Soup Noodle Cuisine

は…

と根拠もなく考えている。

それは一体どんな状況なんだろうか?

それは俺にもわからない。

でもきっと凄いことになる。

それだけは今の段階から言っておく。

Soup Noodle Cuisineとは?

俺が金澤流麺時代から言ってきた

【脱・中華そば論】

これは

「俺の作っているラーメンは所謂中華そばではない!」

という叫びのようなものだったのだが、Soup Noodle Cuisine(スープヌードルキュイジーヌ)とは…

「中華そばではないなら、それは何なの?」

という問いに対しての俺からの答えでもあり、これから俺が生み出し続ける料理表現に名付けたジャンル名でもあり、俺の哲学を表す概念でもある。

そしてスープヌードルキュイジーヌとしての在り方も作り続ける中でどんどんと変わっていくのだろうな…と今からも思うし、それが完成することもないような気がしている。

俺が望むのは、俺が常に変わろうとし続ける好奇心や感性を失わないことと、変化することを恐れないことと、「これが完成形だ!」などと思う日が来ないことである。

一生探求して変化して進化し続けていきたい。

世界に影響を与えるとは?

バタフライエフェクトという言葉がある。
本来は数学用語やしいが、よく例えられるのが

『アメリカで起こったハリケーンの原因を辿っていくと、蝶々の羽の羽ばたきだった』

という話だ。

俺がスープヌードルキュイジーヌを名乗り、それが人に、世界に、どのような影響を与えるのか?

それについても俺は具体的には一切考えてはいない。

生きてる間に◯◯みたいになる…

のような短期的な評価だけが欲しいのではない。

俺が死んだ後も

「私はスープヌードルキュイジーヌという概念に影響を受けました。これがその原点です」

と俺の書いた本(いつか必ず書く)を100年後の若者が掲げるような影響力を持つ。

吉田松陰は生きているうちに目立った成果は出していない。

もっと言えば、孔子もイエスキリストも自分の著書などひとつも出していない。

後世の人達が語り継ぎ伝説になっていった。

吉田松陰も孔子もイエスキリストも、自身が生きている時は自分が死後150年〜2500年という後にここまでの伝説になっているなんて想像もしたことがないだろう。

目の前のことに情熱を傾けた結果、誰かの心を動かし、またその誰かが誰かの心を動かし、その連鎖が新しい動きを生み出し、伝説は作られるのだろう。

俺がスープヌードルキュイジーヌという新しい概念を掲げるのは、自分の想いや考えがどの同業者と共有することもできず、完全に浮いた存在として扱われていることに対して、「俺はもうラーメン屋ではない。スープヌードルキュイジーヌだ」と宣言をすることでラーメン業界との訣別の意味も込めている。

「ラーメンらしくないね」

という感想に対して

「はい、ラーメンではありませんから。スープヌードルキュイジーヌです」

とハッキリと答えるためだ。

その後、それこそ俺が死んだ後、スープヌードルキュイジーヌという言葉の意味が誰かの手によって変化をしたり、深みを増したり、幅を持ったり、解釈が広がったり、俺の理解を超えるものになっていくことは大歓迎だ。

最後は手垢に塗れたコーランや旧約聖書のようになればいい。

その頃俺は、伝説だ。

あ、でもそろそろ貧乏は卒業したいっす。

短期的な評価など目標ではない、などと嘯きながらも、そろそろ安定して暮らしたいっす。

それは本音っす。

はい。

方法論ではない?

俺がラーメン屋に飛び込んだ1番最初は横浜のご当地ラーメン『家系ラーメン』だった。

家系ラーメンはルールが明確だ。

豚骨スープに醤油味。
鶏の油が浮いていて、海苔、チャーシュー、ほうれん草、というスタイルが確立されている。

スープヌードルキュイジーヌとは、概念である故にそうしたスタイルは持たない。

金澤流麺らーめん南がどんな店だったか?という問いに

『無化調ラーメン』
『無添加』
『安心安全』

などのキーワードがあった。

それはもちろん貫くし、よりストイックにこだわることになる。

だからそれらは俺にとってこだわりと言うよりかは『当たり前』のものなので声高に言うつもりもない。

もっと当たり前になればいい。

飲食店全体で当たり前になればいいのになって思う。

別に添加物や化学調味料を頭から否定するつもりはない。

単純に自分が表現したい世界観にそれらが必要がないだけなのだ。

だからスープヌードルキュイジーヌはスタイルや方法論を持たない。

あくまでも概念であり、思想であり、哲学であり、俺の詩情の迸りである。

そんな詩情の迸りを少しずつでと綴っていきたいと考えている。

更新頻度は今連載している『自由と逃走』よりかは下がると思いますが、コツコツと書いていきます。

気が向いたら読んでくれたら嬉しいです。

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